ハビトゥスを歌うー山内志朗「小さな倫理学入門」

今日は山内志郎さんの「小さな倫理学入門」を紹介します。

 山内さんの本は学生時代にぎりぎり合格への論文マニュアル (平凡社新書)を読んだだけで、面白い人だなという印象しかなかったのですが(失礼。でもこの本は本当に面白かったです!)倫理学入門が出たということで読んでみました。

題名どおりサイズも非常に小さく、寝る前に読むのにちょうどいい本なのですが、その中でも随所で山内の中心的な考え方である「ハビトゥス」が取り上げられているので、少し紹介します。(山内のいう「ハビトゥス」は中世のスコラ哲学に由来すると思われます)

山内はハビトゥスを「己を或る状態に保ち続け、それが反復によって自然本性に近い状態となり、苦労しなくても現実に行動に移すことができ、それが安定した能力として定着していること(p.39)」であるといいます。その意味で、ハビトゥスは日本語で「習慣」と訳される以上の意味、例えば日本語や英語を話すことや、自転車に乗ったり泳いだりすることも含まれます。そして山内は「感情」もハビトゥスの一種であり、何度も経験され反復されなければ身につかないものだと指摘します。

私は、山内のこの説明には共感します。怒りや悲しみなど、苦労しなくても自然に身についている(と思える)ような感情もありますが、子どもの時にはあまり抱かなかった感情が大人になって自然なものとして湧いてくる、ということがあります。

例えば、「おめでとう」という祝福の感情。自分を振り返ると、小さな頃は他人の幸せや、いろいろな催事を祝福するという感情を心からは抱いていなかったように思えます。それが大人をまねて「おめでとう」と言い、繰り返し反復することで、なにか「おめでたい」というような感情が湧いてくるようになりました。この変化は発達の段階として捉えることもできますが、山内のいうようなハビトゥスの獲得としてみることもできるのではと思います。そうであれば、ハビトゥスは非常に広い概念であり、山内が「私が倫理学で語りたいことと言えば、ハビトゥスに始まりハビトゥスに終わります(p.39)」というのもあながち言い過ぎでないような気がします。

(おわり)

追記:山内さんのインタビューが最近ネットにアップされていましたので参考に。

http://philosophy-zoo.com/archives/5180

哲学に上から目線はないー野矢茂樹「哲学な日々」

自分が影響を受けた日本の哲学者をあげろと言われたら、私はまず野矢茂樹を選ぶと思います。彼の本はありきたりな感想ですがどれも面白く、おすすめです。

野矢といえば哲学の謎 (講談社現代新書)無限論の教室 (講談社現代新書)

が有名ですが、今回は最近出版されたこの本を紹介します。

哲学な日々 考えさせない時代に抗して

哲学な日々 考えさせない時代に抗して

 

 この本は短いエッセイを集めた形式となっているので、移動中でもさくさく読めます。エッセイのテーマは多岐にわたりますので全てを紹介することはできませんが、特に印象に残ったものを今回は紹介したいと思います。「歩みをこそ」というエッセイです。

哲学の歩みとは

人は、哲学に何を期待するのでしょう。哲学者の残した数々の名言を読んで、人生の糧にしたいと思う人もいるかもしれません。しかし、名言だけをもてはやすとしたら、「それは哲学ではなく、哲学の残りかすに過ぎない」と野矢は言います。

哲学の核心はその問題にある。いかに生きるべきか。どうすれば正しい知識を得られるのか。自我とは何か。私は自由なのか。自由とはどういう意味なのか。いまだ正解と呼べるものは見出されていない。誰もが答えの途上にある。抱え込んだ問いに揺さぶられつつ、次の一歩を探り当てようとしている。問いの緊張に射抜かれていない言葉は、哲学ではない。 

(中略)だから、高みから語られる余裕の言葉など、哲学に期待しないでほしい。哲学者たちは、いくらでも踏みまちがう可能性のある未踏の地を、一歩ずつ探りながら進もうとしている。その歩みをこそ、見届けてほしい。(「47.歩みをこそ」より)

私は、野矢のこの記述に強く共感します。哲学の問題を考えるというのは迷いながら一歩一歩を踏みしめることであり、時に道を踏み外したり、道を間違えて引き返したりすることでもあります。その人自身も通ったことのない道で、かつ地図もないのであれば、他の人に正しい道を教えることなどできるはずがありません。

別の言葉でいえば、哲学に「上から目線」はないということかもしれません。哲学者ができるのは、ただ迷う姿を見せるのみです。「そこに行ったら道を間違えるぞ」ということはできるかもしれませんが、彼は人一倍迷っているだけであって、別に偉いわけではありません。そもそも彼も正しい道を知らないのですから。

(おわり)

理想は現実と違うから意味がある

先日の記事で現実主義にまつわる丸山眞男のエッセイを紹介しました。

hare-tetsu.hatenablog.com
私たちは「現実的でない」「現実を見ていない」といった言葉である種の理想を批判しがちです。しかしそこで「現実」と私たちがよぶのは、多面的な事実の集まりから一部分を抜き出した、いわば恣意的に選ばれた事実である、と丸山は指摘していました。

少し視点は変わりますが、そもそも理想を「非現実的」だとして批判することは妥当なのでしょうか。以前紹介した岩崎武雄「哲学のすすめ」の中にこんな文章があります。岩崎は「いかにあるべきか」という価値の問題は「いかにあるか」という事実の問題とは全く無関係だと指摘し、例えば「善人になるべきだ」という価値判断は事実として世界に善人が全く存在しなくとも成り立つと言います。岩崎はこう続けます。
むしろわれわれは、あるべき状態が事実として成立していないときにこそ、価値判断は意味をもっているとさえ、いうことができるのではないでしょうか。世界じゅうの人々が事実としてすべて善人であるならば、「善人であるべきだ」という価値判断は、たいして意味をもたないかもしれません。なぜなら、そのあるべき状態は事実としてすでに実現してしまっているからです。これに反して、世界じゅうに善人が少ないとすれば、「善人になるべきだ」という価値判断はもっと大きな意義をもつでしょう。なぜなら、善人でないわれわれは、善人になるべく努力するべきだということがそこから導かれるからです。(『哲学のすすめ』p.38)
理想というのは事実に対して、「こうあるべき」「こうなった方がよい」という価値判断に基づいて生まれるものです。事実と理想がもし一致していれば理想を主張する必要はないので、理想は現実と違うからこそ主張する意味があるといえます。
こう考えると、理想に対して「現実的でない」ということは、実はあまり意味を持たないことになります。そこで議論されるべきことは「こうあるべき」という理想自体が共有できるかどうかということと、共有できる場合はどのような手段で理想を実現するか、ということではないでしょうか。
(おわり)

リアリズムに潜む罠?:丸山眞男「『現実』主義の陥穽」

「その考えは現実的でない」

「理想と現実は違う」

このような言葉で私たちは「現実」を語りがちです。しかし、私はこの言葉を聞くたび、あるいは自分で使うたびに、何とも言えない違和感を覚えます。ここでいう「現実」とは何でしょうか?「現実的でない」ことがなぜネガティブな価値を帯びるのでしょうか。

丸山眞男「『現実』主義の陥穽」は、私のこの疑問を考えるヒントをくれました。このエッセイは1952年に出され、戦後の日本の各国との講和およびその後の再軍備をめぐる議論を踏まえて書かれていますが、その分析は現在でも通用するように思えます。

「現実」の3つの特徴

丸山は日本における「現実」という言葉の使い方について三つの特徴があるといいます。一つ目は現実の「所与性」です。「所与」という言葉は変えられない前提として私たちに「与えられたもの」というニュアンスがありますが、丸山の説明を読んだ方がわかりやすいと思います。

現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他方で日々作られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観へ転化します。「現実だから仕方ない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。(「丸山眞男セレクション」p.247、以下同書のページを参照)

二つ目の特徴は現実の一次元です。 私たちが「現実」というときには、無数にある事実からある側面を(無意識に)選択している、というものです。

いうまでもなく社会的現実は極めて錯綜し矛盾したさまざまの動向によって立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的基盤に立て」とか言って𠮟咤する場合には大抵簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。(p.248)

では、「現実的」とされるのはどのような側面なのでしょうか。丸山は当時の講和と再軍備をめぐる日本の動向を踏まえて、それは時々の支配権力が選択する方向だといいます。これが三つ目の特徴です。

すなわち、その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。(p.250)

以上のような丸山の指摘を踏まえると、私たちが「現実的」と捉えるものは、既成事実だけをピックアップし、かつピックアップされた以外の多様な事実を無視しているものであり、しかも選択されるのは何らかの権力が選択している方向に沿った事実だということになります。現実に起こっていることを重視する「リアリズム」という言葉がありますが、上記のように考えると、この立場には何らかの落とし穴があるように思えてなりません。自分も色々な場面で「現実的」という言葉を使ってしまいますので、丸山の主張を心に留めておきたいと思います。

ここには書ききれませんが、このエッセイには他にも重要な指摘がたくさんありますので、興味のある方は読んでおいて損はないと思います。手に入りやすいものだと下記の本に収録されています。 

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

 (おわり)

構想はあたためても意味がない

こんにちは。ブログをはじめて5日目となりました。

 
実はこのブログを書く構想は何年も前から「あたためて」いて、そのときからどんなことを書こうか考えていました。そういう意味で自分の中では満を持して開始したつもりだったのですが、いざ動き出してみると「こんなことを書いたら面白いんじゃないかな」といったアイデアが次々と湧いてきました。いずれも構想を「あたためていた」ときには思いつかなかったことです。
 
 今振り返ってみると、自分は構想を「あたためて」いたつもりでも、実際はそこで具体的な検討をやめて、行動を先送りにしていただけかもしれません。もちろん事前に具体的に構想を練り、その上で形にしていくというのができるに越したことはないのですが、私の場合は不完全でも形にしてみて、その上で修正していくのが自分に合っているのだなと思いました。
 
 ブログだけでなく他にも「あたためて」ある企画がたくさんあるので、今年はどんどん外に出していきたいと思います。

このブログでやりたい3つのこと。

こんにちは。ブログをはじめて4日目になりました。

今日は、このブログでやりたいことを書きたいと思います。

1.読んだ本の紹介

読んだ本の感想を書いていきます。自分は本を読んでもメモをあまりとらない癖があるので、備忘録代わりにも使えることも期待しています。

2.哲学のパラドックスや思考実験の紹介

しばらくメインでやっていきたいと思うのはこちらです。はじめて知る人の入口になれるような記事を書ければいいなと思っています。とりあえず、人気のありそうな(?)「哲学的ゾンビ」あたりからはじめようかな…

3.哲学カフェなどの対話活動の感想、考察など

自分のやっている哲学カフェの感想や考察なども書いていこうと思います。すでに他の媒体があるので、このブログで哲学カフェの情報を大々的に流す気はありませんが、まとまった感想や考察を書く場として利用しようかと考えています。

※ちなみに、自分のやっている哲学カフェ:びわこ哲学カフェ便り

 

その他、雑感なども書いていきたいと思います。  

(おわり)

科学は「なぜ」を説明しない?

昨日「哲学のすすめ」の紹介をしました。

この本の中で科学は「いかに」は問えるが「なぜ」は問えないという指摘がありました。これって、どういうことなんでしょう。

「いかに」と「なぜ」の違い

昔、誰かのコントで次のような場面を見た気がします。(詳細は忘れました…)

ある男が、スポーツの試合で決勝に出ていた。友人は別の場所で大事な面接があったのにもかかわらず、男を応援するため駆けつけた。友人を見つけた男は「どうして来たんだよ!」と問うたが、友人は「電車だよ!」と答えた…というものです。

この場合、男が聞きたかったのは友人が面接を抜けてまで来た「理由」であって、友人がどんな「手段」で来たかはどうでもいいのです。

このネタは日本語の「どうして」や「何で」の意味が上にあげたような両方の意味で使うことを利用していますが、「いかに」と「なぜ」の場合はもう少し意味は絞られていると思います。

「いかに」と「なぜ」は英語の「how」と「why」に対応していますので、前者が方法や何かが起こる様を、後者が理由を問うものだと大まかに区別することができます。

モノは「なぜ」落ちる?

さて、話を戻します。

科学は「いかに」を問うことはできるが「なぜ」は問えない。

これは「どうして」でしょうか。

ところで、モノを落とすと、当然地面へ落下していきます。そして改めて言われると不思議なことなのですが、高いところから落としたモノは地面に近づくにつれてだんだんとスピードを増していくという事実があります。

この事実は高校とかで習う重力加速度gを用いて記述(v=gt)されますが、この公式は落下する速度(v)が時間(t)に比例することを示しているのみです。

つまり、この公式は落下後の速度が「いかに」増すかを説明するだけで、「なぜ」地面に近づくにつれて速度を増すのかということについては一切説明していません。

「重力加速度があるから」というのが「モノが地面に近づくにつれ落下速度を増す」理由だと思われる方もいると思いますが、重力加速度とは「物体を落としたとき、その物体の速度が時間当たりにどれだけ速くなるかを示した量」のことですので、結局同じことを繰り返しているだけ(同語反復)です。

あるべき場所に戻りたい?

中世までは、例えば人が家に帰りたい思いから家が近づくにつれ足早になるのと同じように、本来「あるべき位置」へすみやかに戻ろうとするから、モノもだんだんと落下速度を増すのだというように「なぜ」そうなるのかの説明がされていました。(もちろん、この説明は今ではナンセンスです)

そして、この「なぜ」の説明の多くは自然の奥に何らかの神秘的な力や神の存在を前提とするものでした。近代までは科学と宗教、哲学は切り離せなかったのです。

近代の自然科学は、このような超自然的なものが存在するかどうかは一旦置いておいて、ただ事実をあるがままに記述しようとする態度から生まれたものです。

事実のみを対象とすることで実験が可能になり、自然科学はその後目覚ましい発展を遂げました。ただ、このような成り立ちからして、科学は本質的に「なぜ」という視点を持たないということは言えると思います。

個人的には、現在は理由や原因を問う時に「いかに」=メカニズムの説明で十分事足りることが多く、「なぜ」と問うことが少なくなってきているのではないか…と思ったりもします。「どうして」や「何で」と同様に、「なぜ」という言葉も「いかに」と同じような使われ方をする場合がありますので、この日本語のあいまいさも一因かもしれません。

※余談ですが、先ほど書いたこの「どうして」はどっちの意味か、考えてみるのも面白いかも?

科学は「いかに」を問うことはできるが「なぜ」は問えない。

これは「どうして」でしょうか。

(終わり)