はれ ときどき てつがく。

ちいさな「てつがくする」をさがして

言葉に織り込まれるもの:「翻訳できない世界のことば」

前から気になっていた「翻訳できない世界のことば」を先日見つけたので購入。この本は「Apple=りんご」のように、一対一で翻訳できない世界のことばを集めたものです。絵本形式のようになっていて、30分もあれば全て読めてしまうぐらいの分量ですが、興味深かったです。

いくつか例をあげると、「FIKA」という短いスウェーデン語には「日々の仕事の手を休め、おしゃべりしたり休憩したりするためにカフェや家に集うこと」という意味があるそうです。イヌイット語の「IKTSUARPOK」は「誰かが来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること」という意味。日本語からも「木漏れ日」や「侘び寂び」などが取り上げられています。(「積ん読」が入っていたのには驚きましたが…)

これらの言葉からは背景にある文化が透けて見えます。スウェーデンでは「FIKA」が好まれるほど休息やおしゃべりを大事にする文化が(きっと)あるのでしょうし、イヌイットにおいては「IKTSUARPOK」してしまうほど他者の来訪は珍しく、喜ばしいものであったのではないかと思います。一つ一つの言葉には、話者たちが積み重ねてきた文化が織り込まれているのではないでしょうか。

そのように考えると、「Apple=りんご」(本書に出てくる例)であっても両者は厳密には一対一対応しないのではないか、とも思います。例えばアメリカでは「Apple pie」は日本人にとっての味噌汁同様に「おふくろの味」を連想させる料理だそうです。アメリカの方が「Apple」と口に出すとき、見かけの対象は同じでも、その言葉に織り込まれたものは日本語の「りんご」のそれとはやはり微妙に異なるのではないでしょうか。もっと言えば同じ日本語を話す人同士、それがたとえ同世代の人であっても、ひとつひとつの言葉に織り込まれているものはそれぞれ違うのだろうな、と考えさせられる一冊でした。

ところで本書では「翻訳できない言葉」は「一対一対応できない」という意味で使われていますが、「どれだけ言葉を尽くしても、その言語ではうまく表現できない」言葉というのもあるのではないでしょうか。本書で後者の意味に近い言葉と感じたのは、ズールー語の「UBUNTU」でした。今ではOSの名前にもなっているこの言葉、文中の説明では「本来は『あなたの中に私は私の価値を見出し、私の中にあなたはあなたの価値を見出す』という意味で『人のやさしさ』を表す」となっており、やや歯切れ悪い翻訳に感じられました。「UBUNTU」という言葉にはもっと豊かなものが織り込まれている、ということを逆に表しているのかもしれません。

翻訳できない世界のことば

翻訳できない世界のことば

 

 (おわり)

名言にはもう少し出典を詳しく書いてほしい、という話

先日、ニーチェの以下の名言を英訳してほしいという依頼を受けました。

「人生は登ろうとする。登りながら自己を克服しようとするのである。」

自分は翻訳家ではないので、ニーチェの英語訳を参照しようと思って該当箇所を探したのですが、なかなか見つかりません。

ネットでこの文言を検索すると結構な数が出てくるのですが、出典の情報はわずかで、かろうじて「ツァラトゥストラはこう語った」の第二部に出てくることがわかるのみです。(原書の該当ページなどは出てくるのですが、自分の持っている版とは違うものだったり…)その後色々検索し、日本語訳も見てようやく該当部分を発見することができました。

そもそも名言の出典を探している人がどれほどいるのかはわかりませんが、みなさんが同じ苦労をすることのないように以下にまとめておきます!

◆人生は登ろうとする。登りながら自己を克服しようとするのである。

こちらは「ツァラトゥストラはこう語った」第二部、「毒ぐもタランテラ」の中に出てくる文です。岩波文庫の氷上訳だと、171ページが該当箇所です。

ドイツ語の原文だと「Steigen das Leben und steigend sich überwinden.」

英語に訳すと「Life wants to climb and to overcome itself climbing.」

自分は「毒ぐもタランテラ」を読んだことがあるくせにこの文の存在を思い出せませんでした…改めて読み返してみると、この章ではツァラストゥラが平等や正義を唱えるものを毒ぐもになぞらえ、その裏に復讐心が潜んでいることを批判しています。ツァラストゥラは不平等と争いの中で自己が高められていくことを以下のように説いています。

また、人間は平等になるべきでもない!かりに、私がそう言わないとすれば、わたしの超人への愛は、一体なんだろう?

人間は百千の大きな橋、小さな橋を渡って、未来に押し寄せて行くべきなのだ。こうしてますます多くの争いと不平等が、かれらのあいだに起こらなければならない。このことをわたしにあえて語らせるのは、わたしの大いなる愛である!

人間は相互の敵意の中で、様々な影像と幻影の発明者とならなければならない。そして、それぞれの影像と幻影をもって、いよいよはげしく敵対し、最高の戦いを戦わなければならない。

善悪、貧富、貴賎、その他もろもろの価値の名称。それらは武器であるべきなのだ。人生がたえず自己自身を克服して高まらなければならないことを示す戦場の標識であるべきなのだ。

人生そのものが、柱をたて、階段をつくって、自己自身を高く築きあげようとする。人生は、はるかな遠方を眺め、至福の美を望み見ようとする。ーそのために、人生は高みを必要とするのである。

高みを必要とするから、人生は階段を必要とし、階段とそれを登って行く者の相克を必要とする。人生は登ろうとする。登りながら自己を克服しようとするのである。(岩波文庫「ツァラストゥラはこう語った」pp.170-171、一部訳を改変)

このように出典にあたると、名言がまた違った形で見えてきますね。名言にはもう少し出典を詳しく書いてあるといいのに、と思った経験でした。 

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

 

 (おわり)

ハビトゥスを歌うー山内志朗「小さな倫理学入門」

今日は山内志郎さんの「小さな倫理学入門」を紹介します。

 山内さんの本は学生時代にぎりぎり合格への論文マニュアル (平凡社新書)を読んだだけで、面白い人だなという印象しかなかったのですが(失礼。でもこの本は本当に面白かったです!)倫理学入門が出たということで読んでみました。

題名どおりサイズも非常に小さく、寝る前に読むのにちょうどいい本なのですが、その中でも随所で山内の中心的な考え方である「ハビトゥス」が取り上げられているので、少し紹介します。(山内のいう「ハビトゥス」は中世のスコラ哲学に由来すると思われます)

山内はハビトゥスを「己を或る状態に保ち続け、それが反復によって自然本性に近い状態となり、苦労しなくても現実に行動に移すことができ、それが安定した能力として定着していること(p.39)」であるといいます。その意味で、ハビトゥスは日本語で「習慣」と訳される以上の意味、例えば日本語や英語を話すことや、自転車に乗ったり泳いだりすることも含まれます。そして山内は「感情」もハビトゥスの一種であり、何度も経験され反復されなければ身につかないものだと指摘します。

私は、山内のこの説明には共感します。怒りや悲しみなど、苦労しなくても自然に身についている(と思える)ような感情もありますが、子どもの時にはあまり抱かなかった感情が大人になって自然なものとして湧いてくる、ということがあります。

例えば、「おめでとう」という祝福の感情。自分を振り返ると、小さな頃は他人の幸せや、いろいろな催事を祝福するという感情を心からは抱いていなかったように思えます。それが大人をまねて「おめでとう」と言い、繰り返し反復することで、なにか「おめでたい」というような感情が湧いてくるようになりました。この変化は発達の段階として捉えることもできますが、山内のいうようなハビトゥスの獲得としてみることもできるのではと思います。そうであれば、ハビトゥスは非常に広い概念であり、山内が「私が倫理学で語りたいことと言えば、ハビトゥスに始まりハビトゥスに終わります(p.39)」というのもあながち言い過ぎでないような気がします。

(おわり)

追記:山内さんのインタビューが最近ネットにアップされていましたので参考に。

http://philosophy-zoo.com/archives/5180

哲学に上から目線はないー野矢茂樹「哲学な日々」

自分が影響を受けた日本の哲学者をあげろと言われたら、私はまず野矢茂樹を選ぶと思います。彼の本はありきたりな感想ですがどれも面白く、おすすめです。

野矢といえば哲学の謎 (講談社現代新書)無限論の教室 (講談社現代新書)

が有名ですが、今回は最近出版されたこの本を紹介します。

哲学な日々 考えさせない時代に抗して

哲学な日々 考えさせない時代に抗して

 

 この本は短いエッセイを集めた形式となっているので、移動中でもさくさく読めます。エッセイのテーマは多岐にわたりますので全てを紹介することはできませんが、特に印象に残ったものを今回は紹介したいと思います。「歩みをこそ」というエッセイです。

哲学の歩みとは

人は、哲学に何を期待するのでしょう。哲学者の残した数々の名言を読んで、人生の糧にしたいと思う人もいるかもしれません。しかし、名言だけをもてはやすとしたら、「それは哲学ではなく、哲学の残りかすに過ぎない」と野矢は言います。

哲学の核心はその問題にある。いかに生きるべきか。どうすれば正しい知識を得られるのか。自我とは何か。私は自由なのか。自由とはどういう意味なのか。いまだ正解と呼べるものは見出されていない。誰もが答えの途上にある。抱え込んだ問いに揺さぶられつつ、次の一歩を探り当てようとしている。問いの緊張に射抜かれていない言葉は、哲学ではない。 

(中略)だから、高みから語られる余裕の言葉など、哲学に期待しないでほしい。哲学者たちは、いくらでも踏みまちがう可能性のある未踏の地を、一歩ずつ探りながら進もうとしている。その歩みをこそ、見届けてほしい。(「47.歩みをこそ」より)

私は、野矢のこの記述に強く共感します。哲学の問題を考えるというのは迷いながら一歩一歩を踏みしめることであり、時に道を踏み外したり、道を間違えて引き返したりすることでもあります。その人自身も通ったことのない道で、かつ地図もないのであれば、他の人に正しい道を教えることなどできるはずがありません。

別の言葉でいえば、哲学に「上から目線」はないということかもしれません。哲学者ができるのは、ただ迷う姿を見せるのみです。「そこに行ったら道を間違えるぞ」ということはできるかもしれませんが、彼は人一倍迷っているだけであって、別に偉いわけではありません。そもそも彼も正しい道を知らないのですから。

(おわり)

理想は現実と違うから意味がある

先日の記事で現実主義にまつわる丸山眞男のエッセイを紹介しました。

私たちは「現実的でない」「現実を見ていない」といった言葉である種の理想を批判しがちです。しかしそこで「現実」と私たちがよぶのは、多面的な事実の集まりから一部分を抜き出した、いわば恣意的に選ばれた事実である、と丸山は指摘していました。

少し視点は変わりますが、そもそも理想を「非現実的」だとして批判することは妥当なのでしょうか。以前紹介した岩崎武雄「哲学のすすめ」の中にこんな文章があります。岩崎は「いかにあるべきか」という価値の問題は「いかにあるか」という事実の問題とは全く無関係だと指摘し、例えば「善人になるべきだ」という価値判断は事実として世界に善人が全く存在しなくとも成り立つと言います。岩崎はこう続けます。
むしろわれわれは、あるべき状態が事実として成立していないときにこそ、価値判断は意味をもっているとさえ、いうことができるのではないでしょうか。世界じゅうの人々が事実としてすべて善人であるならば、「善人であるべきだ」という価値判断は、たいして意味をもたないかもしれません。なぜなら、そのあるべき状態は事実としてすでに実現してしまっているからです。これに反して、世界じゅうに善人が少ないとすれば、「善人になるべきだ」という価値判断はもっと大きな意義をもつでしょう。なぜなら、善人でないわれわれは、善人になるべく努力するべきだということがそこから導かれるからです。(『哲学のすすめ』p.38)
理想というのは事実に対して、「こうあるべき」「こうなった方がよい」という価値判断に基づいて生まれるものです。事実と理想がもし一致していれば理想を主張する必要はないので、理想は現実と違うからこそ主張する意味があるといえます。
こう考えると、理想に対して「現実的でない」ということは、実はあまり意味を持たないことになります。そこで議論されるべきことは「こうあるべき」という理想自体が共有できるかどうかということと、共有できる場合はどのような手段で理想を実現するか、ということではないでしょうか。
(おわり)

リアリズムに潜む罠?:丸山眞男「『現実』主義の陥穽」

「その考えは現実的でない」

「理想と現実は違う」

このような言葉で私たちは「現実」を語りがちです。しかし、私はこの言葉を聞くたび、あるいは自分で使うたびに、何とも言えない違和感を覚えます。ここでいう「現実」とは何でしょうか?「現実的でない」ことがなぜネガティブな価値を帯びるのでしょうか。

丸山眞男「『現実』主義の陥穽」は、私のこの疑問を考えるヒントをくれました。このエッセイは1952年に出され、戦後の日本の各国との講和およびその後の再軍備をめぐる議論を踏まえて書かれていますが、その分析は現在でも通用するように思えます。

「現実」の3つの特徴

丸山は日本における「現実」という言葉の使い方について三つの特徴があるといいます。一つ目は現実の「所与性」です。「所与」という言葉は変えられない前提として私たちに「与えられたもの」というニュアンスがありますが、丸山の説明を読んだ方がわかりやすいと思います。

現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他方で日々作られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観へ転化します。「現実だから仕方ない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。(「丸山眞男セレクション」p.247、以下同書のページを参照)

二つ目の特徴は現実の一次元です。 私たちが「現実」というときには、無数にある事実からある側面を(無意識に)選択している、というものです。

いうまでもなく社会的現実は極めて錯綜し矛盾したさまざまの動向によって立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的基盤に立て」とか言って𠮟咤する場合には大抵簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。(p.248)

では、「現実的」とされるのはどのような側面なのでしょうか。丸山は当時の講和と再軍備をめぐる日本の動向を踏まえて、それは時々の支配権力が選択する方向だといいます。これが三つ目の特徴です。

すなわち、その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。(p.250)

以上のような丸山の指摘を踏まえると、私たちが「現実的」と捉えるものは、既成事実だけをピックアップし、かつピックアップされた以外の多様な事実を無視しているものであり、しかも選択されるのは何らかの権力が選択している方向に沿った事実だということになります。現実に起こっていることを重視する「リアリズム」という言葉がありますが、上記のように考えると、この立場には何らかの落とし穴があるように思えてなりません。自分も色々な場面で「現実的」という言葉を使ってしまいますので、丸山の主張を心に留めておきたいと思います。

ここには書ききれませんが、このエッセイには他にも重要な指摘がたくさんありますので、興味のある方は読んでおいて損はないと思います。手に入りやすいものだと下記の本に収録されています。 

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

 (おわり)

構想はあたためても意味がない

こんにちは。ブログをはじめて5日目となりました。

 
実はこのブログを書く構想は何年も前から「あたためて」いて、そのときからどんなことを書こうか考えていました。そういう意味で自分の中では満を持して開始したつもりだったのですが、いざ動き出してみると「こんなことを書いたら面白いんじゃないかな」といったアイデアが次々と湧いてきました。いずれも構想を「あたためていた」ときには思いつかなかったことです。
 
 今振り返ってみると、自分は構想を「あたためて」いたつもりでも、実際はそこで具体的な検討をやめて、行動を先送りにしていただけかもしれません。もちろん事前に具体的に構想を練り、その上で形にしていくというのができるに越したことはないのですが、私の場合は不完全でも形にしてみて、その上で修正していくのが自分に合っているのだなと思いました。
 
 ブログだけでなく他にも「あたためて」ある企画がたくさんあるので、今年はどんどん外に出していきたいと思います。