科学は「なぜ」を説明しない?

昨日「哲学のすすめ」の紹介をしました。

この本の中で科学は「いかに」は問えるが「なぜ」は問えないという指摘がありました。これって、どういうことなんでしょう。

「いかに」と「なぜ」の違い

昔、誰かのコントで次のような場面を見た気がします。(詳細は忘れました…)

ある男が、スポーツの試合で決勝に出ていた。友人は別の場所で大事な面接があったのにもかかわらず、男を応援するため駆けつけた。友人を見つけた男は「どうして来たんだよ!」と問うたが、友人は「電車だよ!」と答えた…というものです。

この場合、男が聞きたかったのは友人が面接を抜けてまで来た「理由」であって、友人がどんな「手段」で来たかはどうでもいいのです。

このネタは日本語の「どうして」や「何で」の意味が上にあげたような両方の意味で使うことを利用していますが、「いかに」と「なぜ」の場合はもう少し意味は絞られていると思います。

「いかに」と「なぜ」は英語の「how」と「why」に対応していますので、前者が方法や何かが起こる様を、後者が理由を問うものだと大まかに区別することができます。

モノは「なぜ」落ちる?

さて、話を戻します。

科学は「いかに」を問うことはできるが「なぜ」は問えない。

これは「どうして」でしょうか。

ところで、モノを落とすと、当然地面へ落下していきます。そして改めて言われると不思議なことなのですが、高いところから落としたモノは地面に近づくにつれてだんだんとスピードを増していくという事実があります。

この事実は高校とかで習う重力加速度gを用いて記述(v=gt)されますが、この公式は落下する速度(v)が時間(t)に比例することを示しているのみです。

つまり、この公式は落下後の速度が「いかに」増すかを説明するだけで、「なぜ」地面に近づくにつれて速度を増すのかということについては一切説明していません。

「重力加速度があるから」というのが「モノが地面に近づくにつれ落下速度を増す」理由だと思われる方もいると思いますが、重力加速度とは「物体を落としたとき、その物体の速度が時間当たりにどれだけ速くなるかを示した量」のことですので、結局同じことを繰り返しているだけ(同語反復)です。

あるべき場所に戻りたい?

中世までは、例えば人が家に帰りたい思いから家が近づくにつれ足早になるのと同じように、本来「あるべき位置」へすみやかに戻ろうとするから、モノもだんだんと落下速度を増すのだというように「なぜ」そうなるのかの説明がされていました。(もちろん、この説明は今ではナンセンスです)

そして、この「なぜ」の説明の多くは自然の奥に何らかの神秘的な力や神の存在を前提とするものでした。近代までは科学と宗教、哲学は切り離せなかったのです。

近代の自然科学は、このような超自然的なものが存在するかどうかは一旦置いておいて、ただ事実をあるがままに記述しようとする態度から生まれたものです。

事実のみを対象とすることで実験が可能になり、自然科学はその後目覚ましい発展を遂げました。ただ、このような成り立ちからして、科学は本質的に「なぜ」という視点を持たないということは言えると思います。

個人的には、現在は理由や原因を問う時に「いかに」=メカニズムの説明で十分事足りることが多く、「なぜ」と問うことが少なくなってきているのではないか…と思ったりもします。「どうして」や「何で」と同様に、「なぜ」という言葉も「いかに」と同じような使われ方をする場合がありますので、この日本語のあいまいさも一因かもしれません。

※余談ですが、先ほど書いたこの「どうして」はどっちの意味か、考えてみるのも面白いかも?

科学は「いかに」を問うことはできるが「なぜ」は問えない。

これは「どうして」でしょうか。

(終わり)