リアリズムに潜む罠?:丸山眞男「『現実』主義の陥穽」

「その考えは現実的でない」

「理想と現実は違う」

このような言葉で私たちは「現実」を語りがちです。しかし、私はこの言葉を聞くたび、あるいは自分で使うたびに、何とも言えない違和感を覚えます。ここでいう「現実」とは何でしょうか?「現実的でない」ことがなぜネガティブな価値を帯びるのでしょうか。

丸山眞男「『現実』主義の陥穽」は、私のこの疑問を考えるヒントをくれました。このエッセイは1952年に出され、戦後の日本の各国との講和およびその後の再軍備をめぐる議論を踏まえて書かれていますが、その分析は現在でも通用するように思えます。

「現実」の3つの特徴

丸山は日本における「現実」という言葉の使い方について三つの特徴があるといいます。一つ目は現実の「所与性」です。「所与」という言葉は変えられない前提として私たちに「与えられたもの」というニュアンスがありますが、丸山の説明を読んだ方がわかりやすいと思います。

現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他方で日々作られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観へ転化します。「現実だから仕方ない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。(「丸山眞男セレクション」p.247、以下同書のページを参照)

二つ目の特徴は現実の一次元です。 私たちが「現実」というときには、無数にある事実からある側面を(無意識に)選択している、というものです。

いうまでもなく社会的現実は極めて錯綜し矛盾したさまざまの動向によって立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的基盤に立て」とか言って𠮟咤する場合には大抵簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。(p.248)

では、「現実的」とされるのはどのような側面なのでしょうか。丸山は当時の講和と再軍備をめぐる日本の動向を踏まえて、それは時々の支配権力が選択する方向だといいます。これが三つ目の特徴です。

すなわち、その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。(p.250)

以上のような丸山の指摘を踏まえると、私たちが「現実的」と捉えるものは、既成事実だけをピックアップし、かつピックアップされた以外の多様な事実を無視しているものであり、しかも選択されるのは何らかの権力が選択している方向に沿った事実だということになります。現実に起こっていることを重視する「リアリズム」という言葉がありますが、上記のように考えると、この立場には何らかの落とし穴があるように思えてなりません。自分も色々な場面で「現実的」という言葉を使ってしまいますので、丸山の主張を心に留めておきたいと思います。

ここには書ききれませんが、このエッセイには他にも重要な指摘がたくさんありますので、興味のある方は読んでおいて損はないと思います。手に入りやすいものだと下記の本に収録されています。 

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

 (おわり)