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デヴィッド・ボーム「ダイアローグ」を読む(1)

デヴィッド・ボームの「ダイアローグ(On Dialogue)」をこの夏はじめて読みました。色々な人からお勧めされる対話論の名著ですが、なかなか読む機会がありませんでした。(サボっていた、ともいう)

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ

 

この本、分量はそれほどでもないのですが、正直難解です。 実践的な対話のスキルに関心のある方にとってはあまり得るものがないかもしれません。それでも多くの刺激を与えてくれる本なので、自分の整理のために各章をゆっくりと読んでいこうと思います。

第1章 コミュニケーションとは何か

第1章は「コミュニケーション」をテーマにした短い文章です。冒頭でボームは現代の国家間の対立や、階級・信念など異なったグループ間の対立、世代間の対立に触れ、「コミュニケーションの問題」への関心の高まりを指摘します。しかも、コミュニケーションの問題を解決しようと同じ試みをしているグループはたくさんあるのに、彼ら自身も違うグループの話に耳を傾けることができず、結果としてさらなる混乱を招くことが多いとボームは指摘します。

ボームはこれらの事実から「コミュニケーションについて考えたり語ったりする上での大雑把で無神経な方法が、現在の問題を解決するための知的な行動を見つけられない大きな要因である可能性はないだろうか?」と考え、「コミュニケーション」という言葉の意味について考えていきます。

「コミュニケーション」という言葉の元になったのは、ラテン語の「commun」と「何かをさせる、やらせる」という意味の「fie」と同様の接尾辞の「ie」。だから「コミュニケートする」という言葉の意味の一つは「何かを共通のものにする」となります。これはある人から別の人へ、できるだけ正確に情報や知識を告げるという意味になります。

しかし、ボームは「コミュニケーション」という言葉の意味は上記だけでは十分でないとして、対話を例に次のように述べます。

対話では、人が何かを言った場合、相手は最初の人間が期待したものと、正確に同じ意味では反応しないのが普通だ。(中略)だから、話しかけられた人が答えたとき、最初の話し手は、自分が言おうとしたことと、相手が理解したことの間に差があると気づく。この差を考慮すれば、最初の話し手は、自分の意見と相手の意見の両方に関連する、何か新しいものを見つけ出せるかもしれない。(中略)したがって対話では、話し手のどちらも、自分がすでに知っているアイデアや情報を共有しようとはしない。むしろ、二人の人間が何かを協力して作ると言ったほうがいいだろう。つまり、新たなものを一緒に創造するということだ。(p.38)

科学者も自然と似たような「対話」を行なっているとボームは言います。科学者が思い浮かべた考えと、自然界で観察されるものの類似性や相違を考慮すれば、新しい考えが生まれ、その考えもまた観察によって確かめられることになります。こうして科学者が思い浮かべたもののと、自然界で観察されるものとに共通した、新しい何かが絶えず生まれています。

このようなコミュニケーションが生まれるためには、話し手の双方が、真実と「一貫性があること(コヒーレンス)」に関心を持つことが大事だ、とボームは指摘します。それは古い意図や考えを捨てて、これまでとは異なったものに取り組む心の準備ができるようにするためです。反対に、自分の考えや観点を情報の項目のように伝えることを望むなら、失敗は免れないともボームは言います。というのも話を聞く方は、語り手の考えという、一種のフィルターにかけられたものを聞いているからであり、それは語り手が維持したい、守りたいと思う内容になっているからです。(これでは新しいものは生まれません。)

また、例えば誰かが尋ねられた質問を「ブロック(遮断)」するとき、その人は自分にとって大切かもしれない考え方に存在する矛盾との直面を無意識に避けているのかもしれません。しかしこのような「ブロック」の存在は自分では気づき辛いもので、他人の話にきちんと耳を傾けているつもりでも、知らないうちに自分の考えを防御しているということが起こり得ます。コミュニケーションを実際に「ブロック」しているものに各自が充分に注意を払う必要がある、とボームは言います。

「協働作業」としての対話?

以上が1章の大まかな内容です。 「対話」というと、AさんとBさんが話す中でお互いを理解し(相互理解)、それぞれの考えが変わっていくというようなイメージを持ちます。しかしボームのいうような(いわば)「協働作業」という観点から考えると、対話においては新しいものを一緒に創造する、ということが第一であり、それぞれの考えが変わるのはむしろ二次的な効果だと言えるのでは?と思いました。個人の考えが変わらなくても(むしろ変わらない方が?)共に新しいものは創造できるのかもしれません。この点については後の章も読んでゆっくり考えたいと思います。

(おわり)