哲学カフェはなぜ「カフェ」なのかー「カフェ性」の探究へ②

前回の記事で、哲学カフェにおいては「哲学」と「カフェ」が切り離しがたい形で結びついているのでは、という話を書いた。そして、哲学カフェの「カフェ」の部分について考えてみたい、と。

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前回にも書いたように、多くの哲学カフェ(カフェや喫茶店でない場所で開催されるものも含む)では「カフェ的な雰囲気」が重視される。これは、例えば「カフェのようにコーヒーを飲みながらリラックスした雰囲気で気軽に語り合いましょう」といった感じで説明される。そこでは「カフェ」は大学から離れた市民の生活の場として捉えられると同時に、立場や肩書きに関係のない気軽な議論の場としてもイメージされている。「カフェ」の名のついた多くの対話型イベントで共有されているように思えるこのイメージについて補足するために、この記事ではカフェの成り立ちの歴史的背景について簡単に紹介しておきたい。

スーフィーが広めた「イスラームのワイン」

まず、コーヒーの話。コーヒーの語源はアラビア語の「カフワ(Qahwa)」とされるが、この言葉はもともと「ワイン」も意味していたという。どうしてワインとコーヒーが一緒くたにされたのだろうか。「カフワ」という言葉は「何かへの欲望を払う」という意味を持っている。ワインというと現代ではむしろ食欲を増進させるようなイメージがあるが、かつてのアラビアではむしろ食事を避けるためにワインが飲まれていたという。しかし、イスラーム世界において飲酒はタブーである。そこでコーヒーが登場する。

コーヒーはイスラーム神秘主義者であるスーフィーが広めた。飲むと眠れなくなり、食欲もなくなるこの奇妙な飲み物は、現世を否定し、睡眠欲や食欲を遠ざけて神との合一に至ろうとするスーフィーたちにまず歓迎されたのだ。その後コーヒーはイスラーム世界に広まり、16世紀のイスタンブールオスマン・トルコ帝国の首都)では「コーヒーの家(カーヴェハーネ)」とよばれるカフェの原型ができ、それまでの共同浴場に変わる新種の社交場として人気を呼んだ。この評判がヨーロッパにも伝わることとなる。

「理性のリキュール」を提供するコーヒー・ハウス

17世紀にはイギリスに初めてのコーヒー・ハウスができる。それまでのイギリスにはお酒を飲んで話をする場所はあったものの、「しらふ」の人たちが集まり話をする場所はあまりなかったのだろう。二日酔いにも効くコーヒーは「理性のリキュール」「アンチ・アルコール」などの触れ込みで宣伝された。

もっとも、コーヒー・ハウスに人々が惹きつけられたのは、そこで「理性のリキュール」を提供していたからというわけではなく、そこに生まれつつあった新種の公共的空間の魅力によるところが大きいだろう。人々はコーヒー・ハウスで新聞や雑誌を読み、商談をしたり、政治談義や文芸談義に花を咲かせた。そこでは様々な身分の人々が集い、自由に議論や情報交換ができたのであり、意見の異なる人々の自由な言論を可能にする民主主義的な雰囲気があった。18世紀の半ば以降、イギリスのコーヒー・ハウスは様々な要因もあり急速に衰退していったが、その頃にはヨーロッパ各地にカフェが広まり、人々が自由に集まり議論する公共的空間として、市民革命にも一定の寄与をしたとされる。

※このあたりの話をもっと詳しく知りたい人には、例えば以下のような本を紹介したい。特に「コーヒーが廻り世界史が廻る」の詳細で多面的な歴史記述には圧倒される。

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

 
コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

 

日本の「カフェー」と「純喫茶」

このように「カフェ」は歴史的にみても「市民の社交場」として、立場や肩書きに関係のない議論の場として機能していたことがわかる。次回は「カフェ」という場の持つ性質について、「哲学」との関係も踏まえて考えてみたいと思う。

余談だが、日本のカフェ文化はどうだったのだろうか。第一次世界大戦前に登場した日本のカフェは当時はヨーロッパのカフェ文化を参考につくられたものであり、当初は文化人たちの集まる場所だった。しかし、その後は女給さんたちの接待を売りにする水商売的な「カフェー」と、いわゆる「純喫茶」に分かれていったという。そして戦後に数が増えた純喫茶は、差異化のために次第に自家焙煎などの工夫を行い、コーヒーそのものの味にこだわるようになったと言われている。(社交の場としての機能が第一で、コーヒーの味は二の次だった西欧のカフェと比べると、当時としてはこの動きは珍しいとされている。)

水商売的な路線や、コーヒーの味にこだわる職人的な路線に独自進化するあたり、なんとも日本的な気がする…ちなみに日本で喫茶店が再び「カフェ」とよばれるようになるのは、お洒落なお店が登場し始めた90年代以降である。

※このあたりの事情は下記の本に詳しい。

カフェと日本人 (講談社現代新書)

カフェと日本人 (講談社現代新書)

 
珈琲の世界史 (講談社現代新書)

珈琲の世界史 (講談社現代新書)

 

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