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コミュニケーションが/その場で/哲学する:堀江剛「ソクラティク・ダイアローグ」

最近出た堀江剛氏の「ソクラティク・ダイアローグ」の感想です。

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

 

 「ソクラティク・ダイアローグ(Socratic Dialogue)」、略してSDはドイツの哲学者レオナルト・ネルゾンの行なっていた哲学教育の方法に由来する対話ワークショップで、その後グスタフ・ヘックマンらによって改良され、現在ではドイツや他の国々に広まっています。プラトンが描いたようなソクラテスの対話と区別する意味で、Neo-Socratic Dialogue(NSD)とよばれることもあります。

SDがどのようなワークショップかというと、集まった少人数の参加者たちが一つの「問い」を立て、自らの経験に基づいて対話をするなかで、全員が合意できる「答え」を導き出す、というものです。これだけ書くとあまり特別なことをしていないように思えますが、SDはこのプロセスを通常二日以上かけて「徹底的」に行うことが特徴であり、そのために結構厳密なルールやステップが設定されています。

SDのステップ

本書の冒頭では堀江氏がオックスフォードで体験したSDの様子が詳しく描かれています。「理解と誤解」をテーマにしたセッションは、下記のようなステップで進んだといいます。

①テーマ:理解と誤解(Understanding and Misunderstanding)

②例(example)を出し合う。また問い(question)を出し合う。

③出し合った例・問いを、それぞれ一つ選ぶ。

④選ばれた例を詳しく記述し、その中から核になる文(core statement)を見つける。

⑤問いの答え(answer)を出し合い、対話によってグループでまとめる。

(p.5)

特徴的なのは、参加者の実際の具体的体験を「例」として一つ取り上げ、問いを考える上での共通の土台とすることです。このときのSDでは参加者の「外国で人に道を尋ね、その言葉は理解できたのに、実際にはその道筋が予想外に複雑で目的の場所にたどり着けなかった」という体験が例として選ばれ、さらに具体的なシーンがヒアリングされて詳しく描写されていきます。

もう一つ、「statement」を重視するのもSDの特徴です。重要な参加者の発言は文章として全て定式化され、板書されていきます。「キーワード」だけを書くのではなく、文章の形で必ず完結させ、また参加者にも自らの発言を文章にする作業が求められます。このような文章が会場に書き出されることで、グループはこれまでの対話の内容をいつでも読み、後続する対話の中で参照・言及することが可能になります。

上記のSDでは、問いに対する参加者の「答え」を列挙していき、それぞれの答えに共通する部分を吟味して一つの文章にまとめていく作業を行ったそうです。最終的には参加者が合意できる形で四つの文章がまとめられました。(答えが一つの簡潔な文章になるケースは少ないらしい。)最終的な答えは他の人からみれば当たり前の内容になることが多いようですが、この「当たり前の定式化」で得られた答えは「その場に集まった限りでの参加者が、その場での対話を通して織り成した、極めて固有な産物(p.70)」であると堀江氏は言います。

本書では他にも堀江氏が進行をしたSDが事例としていくつか紹介されていますが、その時の「statement」も都度記載されており、議論の流れをリアルに追うことができてわかりやすいと感じました。SDの歴史的な展開や「遺伝対話」などの応用例も紹介されており、SDの概要を知る上で有用な一冊だと思います。

「グループが考える」ということ

さて、オックスフォードでSDを経験した堀江氏は、当時次のように感じたそうです。

考えるのは誰なのか。人が考えるだけではない。グループ、あるいはグループの対話の中で生じる発言の連鎖そのものが、独自の「質」をもって展開する。この観点から、あらためて「考える」ということについて考え直す必要があるのではないか。(p.26)

このアイデアは第6章「対話と哲学」で具体的に展開されています。堀江氏は「哲学する」営みを最小限のものとして捉えるなら「言葉の問い直しと組み立て」に集約されると指摘し、それはほとんど対話と同じことだと指摘します。さらに、哲学には歴史の中で蓄積された専門的知識を駆使して、独りで沈思黙考するイメージがあり、「人が/持続的に/哲学する」ことが前提となっていますが、堀江氏はその前提すらも捨ててしまうことを提案しています。つまり、人ではなく「コミュニケーションが/その場で/哲学する」という風に「哲学すること」を捉え直すのです。個人の意向に関係なく、グループの対話の中で生じる「発言の連鎖」が、独自の質を持って(勝手に)「哲学してしまう」。このように考えることで、哲学を現場に向けて開くための手がかりが得られると堀江氏は述べ、「組織」としての現場が自らを反省する際に、非公式的なコミュニケーションとしての「対話=哲学」が挿入される可能性について論じています。

堀江氏も指摘していますが、「対話」においては「個人」同士が考えをやり取りし、それぞれの考えが変化していくというイメージが抱かれがちですが、個人ではなく対話している「グループ」を基準において対話という現象を捉えることには意味があると私も感じています。私は哲学カフェを説明するとき、「ともに考える」場であるということを毎回説明していますが、これも堀江氏の「コミュニケーションが哲学する」と(たぶん)近い感覚を念頭に置いています。

ところで、堀江氏は対話を「言葉による人・事柄の理解(p.203)」として定義しています。カント主義的な精神に基づき「哲学することを教える」ソクラテス的方法を生み出したネルゾンをはじめとして、SDの背景には「理性」と「言葉」への強い信頼があるように思えますが、堀江氏の対話観もSDの背景にある考えに近いようにみえます。

一方で、私は「グループが考える」とき、その場にいる人々の表情や態度、場の雰囲気など言葉以外の要素もそこに組み込みたい気持ちがあります。これを「対話」とよぶべきか、また別のものなのか、という話を以前の記事で少し書きましたが、この点はもう少し自分の中で整理が必要だと感じました。*1

(おわり)

*1:「ケア」を重視するハワイの「こどものための哲学(P4C)」など、日本には他の哲学実践の流れも入ってきており、これらの「対話」観はSD的な(ドイツ的な?)考えとは少し異なるように思えます。このあたり、日本の実践者の中では若干の混乱があるようにも感じています。