手放せ、死ね、甦れ!〜「死の練習」としての哲学?〜

哲学する、というのは結局どういうことなのだろうか。哲学カフェなどなまじ「哲学」の名のつく活動をしているばかりに、「哲学って何することなんですか?」という質問をこれまで幾度となく受けてきた。いまでは「自分が当たり前だと思っていたことを立ち止まって疑い、その上で確からしいことを積み上げていくこと」という風に半ばテンプレート的に答えてはいるものの、何回聞いてもこの質問にはドキッとするし、いつも満足に答えられている気がしない。
 
ここで「立ち止まって疑う」ことと「確からしいことを積み上げる」ことを並べているのは、両者が別の方向性を持っていると思うからだ。哲学対話のなかで自分が満足感を覚えたときを振り返ると、自分が知らず知らず持っていた前提に気づいて、それを手放してみることができた場合と、自分一人では到達的なかったようなところまで探究が進んでいった場合があるように思う。これらは互いに絡み合っているものの、「手放すこと」と「積み上げること」が哲学する際に起こっていることでないか、と僕は暫定的に考えている。たぶん、人によってこのどちらを重視するかは違っており、「積み上げること」を重視する人は過去の哲学者たちの議論の蓄積を利用することで、より深く探究を進めようとするかもしれない。僕はといえば哲学カフェをはじめてから、「手放す」ということに強く興味をもつようになった。

死んで、甦るということ

ところで、ずいぶん前の話になるが、今年の3月に「南区DIY研究室」の「ツクレ、死ね、甦れ」というシンポジウムに参加した。

DIYというと自分で家具を作ったり、家をセルフリノベーションしたりと半ば「おしゃれ」な趣味になった感があるが、このシンポジウムは様々な物事がその道の専門家によって御膳たてされる(もしくは独占される)世界で、自らモノをつくることの根本的な意義について考える、という趣旨のイベントであり、自分の活動を考える上でも大いに得るものがあった。シンポジウムのタイトルの元ネタは「動くな、死ね、甦れ!」という映画*1だが、モノを「つくる」プロセスにおいて、モノや周囲の環境と自分との関係が更新されていくことが「死」と「甦り」で表現されている(のだと思う)。

さて、「哲学は死の練習である」というプラトン(の描いたソクラテス)の有名な言葉がある。自分は長い間、この言葉の意味についてピンときておらず、「なにスピリチュアルなことを言ってんだこいつ」ぐらいにしか思っていなかった。しかし上記のシンポジウムの話を聞いてから、自分に深く染み付き、自分と一体化しているような前提に気づき、それらを「手放す」ということは、一種の「死」に近い体験なのではないかと思うようになった。そしてその地点から新たに思考を立ち上げるということは、死から甦り、生き直すこととパラレルではないか、と。DIYシンポジウムのタイトルをもじるのであれば、「手放せ、死ね、甦れ!」である。

このような考えはプラトンが意図していた「死の練習」とはいささか違うかもしれないが、ここからどのような風景が見えてくるのか、今後じっくりと考えてみたいと思う。*2

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 

(おわり)

*1:

*2:多くの哲学対話において重視される「ケア」の概念は、このような「魂への配慮」としての哲学とも密接に関連していると思うが、まだうまく言語化できていない。