知と愛に関する探究メモ(南区DIY読書会より)

以下、「南区DIY読書会」という集まりで発表した文章を転載する。(一部加筆修正あり)主催のカサ・ルーデンスの情報はこちらから。

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この読書会は各自が関心のある本を読んできて発表する形式をとっていて、僕は現在『ソウル・ハンターズ』を少しずつ読んで発表している。

ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学

ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学

 

この本はロシア連邦サハ共和国に居住するシベリア先住狩猟民「ユカギール人」 の生活や思考様式について記録・考察している。彼らは主な獲物であるエルクという動物の狩りの場面など、特定の文脈で動物を「人格」として捉えており、狩りの場面では動物を(性的に)「誘惑」することが必要になる。狩猟者はときにエルクに対して「恋に落ち」、友人や恋人に近い「愛」の感情を抱くこともあるが、それが長く続くと狩りが失敗するだけでなく、やがて狩猟者自身の命が失われると考えられている。

以下は本書における「愛」の考えの感想を絡めて、哲学や対話における「知と愛」について考えたメモである。(色々と散らかっているのでご了承ください)

西田幾多郎の「知と愛」

西田の『善の研究』の最後に「知と愛」という章がある。この章だけ全体から独立した文章になっていて、西田哲学の用語を理解していなくても比較的楽に読める。この章は以下のような文から始まる。

知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。

然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。(以下、引用は全て青空文庫より)

西田によれば知が主客合一といえるのは、物の真相を探究するときに自己の主観を排し、客観的に物に関わるからである。(これは一般的に言われる「客観的」とは少し違うのだが、説明は省略する)また「愛する」ことについては次のように言われる。

我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。 

「花を愛する」とは「自分が花と一致する」ことだ、と聞くと、以前の自分だったら「西田が何かヤバいことを言っている」と感じて拒絶反応があったのだが、これは要するに、「愛する対象と自分が切り離せない関係にある」ことだと最近考えるようになった。

「物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ」と西田は続ける。ある対象の本質を知ろうとするとき、その対象を自分とは切り離されたものとして分析的に観察するだけでは不十分であり、その対象に深く関わる、あるいは「生きる」必要があるのだろう、と思う。そのとき自分と対象は切り離せない状態になり、対象について探究することは自分自身を変容させていくことになる。 

また、西田は次のようにも述べている。 

余の考を以て見ると、普通の知とは非人格的対象の知識たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。両者の差は精神作用その者にあるのではなく、むしろ対象の種類に由るといってよろしい。而して古来幾多の学者哲人のいったように、宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であって実在その者を捕捉することはできぬ。我々はただ愛に由りてのみこれに達することができる。愛は知の極点である。 

この指摘は、『制作へ』の中で上妻世海が取り上げるヴィヴィイロス・デ・カストロの議論と共鳴している。ヴィヴィイロスは『アメリカ大陸先住民のパースペクティズムと多自然主義』のなかで、西欧近代(客観主義的)の認識論とアメリカ大陸先住民のシャーマニズムを対比している。前者において、知ることは対象を脱主体化し「客体化」することとされるが、アメリカ大陸先住民のシャーマニズムでは知ることとは「人格化」することであり、「知られるべきあちらー向こうというより、あの者のー視点に立つこと」であるとされる。上妻はこの指摘を受け次のように書いている。 

ヴィヴィイロスのこの指摘はとても興味深い。僕には、これは西欧近代主義者とアメリカ大陸先住民のシャーマニズムの「知ること」に対する態度の差異を単に示しているのではないと感じられる。何故なら、哲学とはそもそも「知への愛」を意味していたのだから。つまり、現在のように、多くの知識によって対象を詳細に記述し分類することが「知ること」ではなく、愛することが「知ること」であると、西洋近代の源流にある古代ギリシアの哲学者たちは知っていたのである。

「芸術作品における「魅惑の形式」のための試論」(『制作へ』p.188)

これまでユカギールのエルク狩りにおいて、動物が人格化されるプロセスを見てきたが、これは狩りを成功させるためにエルクを深く「知る」必要があったからだろう。西田やヴィヴィイロスに従えば、エルクを「知る」ためにはエルクを人格化し、「愛する」ことも同時に必要になることになる。

「誘惑」について

さて、ユカギールのエルク狩りにおいて「愛」や「恋に落ちること」は危険なことだとみなされており、あくまで「誘惑」にとどまることが重要だとされていた。愛は「自分から他者への移譲」であり、自己を無くして完全に他者へと「変身」してしまうことであるからだ。(なお「誘惑」は相手のパースペクティブを取り込む「模倣的共感」の能力と結び付けられる。)

狩りにおいて、エルクをこちらの方におびき寄せるには、狩猟者がエルクを「愛している」ということをエルクに感じさせ、エルクもまた狩猟者を「愛する」ように仕向ける必要がある。ウィラースレフはこれを「誘惑のゲーム」だとしており、形式的には「偽りの愛」だと考えている。しかし彼も認める通り、誘惑のゲームにおいて「愛」と「誘惑」の境界ははっきりしない。個人的には「誘惑」を成功させるには愛、少なくても偽りの愛から半歩踏みこんだような関わり方が必要なのではないか、と思う。実際にはエルクに対する「愛」の感情が生まれていることを狩猟者も認めており、彼らはエルクを殺すことでその感情をリセットし、生活を継続することができる面もあるだろう。

オープンダイアローグにおける「愛」

「知ること=愛すること」と、対象を人格化することが密接につながっているとすれば、それはやはり対話的な関係とも密接に関わっていると思う。ここでオープンダイアローグの提唱者であるセイックラ氏が「愛の体験」ついて述べたテキストを紹介する。

多くのミーティングに参加した経験をじっくりと検討してみた結果、私(セイックラ)には次のようなことがわかってきました。ミーティングにおいて感情プロセスが出現したら、それはモノローグからダイアローグへの意向を示すサインである、ということです。つまりそのミーティングは、きっと生産的で役に立つものになるだろう、というサインなのです。

その時の参加者の言葉や仕草は、強い感情の表現へと変わっていきます。それは、当たり前の言葉で言うなら、愛の体験というほかはない感情です。(p.168)

Seikkla 2005、訳とページは斎藤環『オープンダイアローグとは何か』より)

具体例としてあげられているケース(過去に暴行を受け、そのフラッシュバックが繰り返される中で家族との関係も希薄になっていった女性の例)では、ミーティングの中で家族がお互いのことを離れていても思い合い、愛していることが明らかになった。このときミーティングに参加するセイックラも、自分の感情がこの部屋を満たしている感情と共鳴しあっていくのを感じたという。セイックラはバフチンを援用し、このような体験が身体を持つ存在として対話に参加するという「存在の一回性の出来事」に由来すると指摘している。これは同じ空間を共有しない中立的な観察者には不可能な経験である。

ミーティングの際に私たちのなかに生まれる愛の感覚は、決してロマンティックでもエロティックでもありません。愛の感覚とは、意味を共有する世界に参加したことで生じる、身体レベルでの反応のことだからです。その世界は、お互いに信頼しあう人々と、互いにフェアで包括的な存在である私たちとが協力して生み出されたものです。(pp.167-168) 

セイックラが愛の瞬間として例に挙げている具体的な状態は、例えば「分かち合い一体となりつつあるという強い集団感情、あふれ出すような信頼感の表明、感情の身体的な表現、緊張がほどけ身体がくつろいでいく感じ(p.177)」である。オープンダイアローグに限らず、対話の実践者であればこのような状態と「場の深まり」に関連があることについて直感的に同意できる人も多いのではないかと思う。

おわりに

哲学は「知への愛」だが、正直にいうと、このときの「愛」が何か、僕はよくわかっていなかった。(今もよくわからない)もし「知る」ためには「愛する」ことが必要であり、対象と自分が切り離せないような探究のあり方が必要とされるのなら、対話に出会うまでの自分はまさにその対極にある、対象を自分を切り離し分析する「非人格的」な知しか見ていなかったのではないか、と今では思う。そして「愛」が人格的対象に関する知であれば、「人格」と対話することが哲学において重要であったことも頷ける。

ここまで書いたが、「愛」は曖昧な概念なので、結局その正体が何かについてはまだよくわかっていない。特に、対話における「愛」が実際のところ何を意味しているか(例えば「共感」とどう違うか等)についてはさらに考えていきたいと思う。

制作へ 上妻世海初期論考集

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オープンダイアローグとは何か

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 (おわり)