「問い」が生まれるとき

先日京都の妙満寺で開催された哲学カフェに参加してきました。「雪の庭」という庭が有名なお寺です。当日は非常によい天気で気持ちよかったです。

会場はこちら→顕本法華宗 総本山 妙満寺

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今回はお寺を30分ほど自由に回った後で、みんなで考える問いを決める、という流れでした。よい機会なので「問いはどうやって生まれるのだろう?」と自分を観察しながら雪の庭を眺めていました。

しばらく無心で眺めていましたが、問いを出そうと思ってもなかなか出てきません。やがて庭に若いお坊さんが入ってきて掃除をしはじめました。そこではじめて、「彼は庭に堂々と入っているのに、自分はこの庭に入ろうと思わなかったのはなぜか」という疑問がふっと湧いてきました。それまで自分は「自然と(人工的な)庭との調和」について思いを巡らせていたので、自分でも予想していなかった疑問が突然湧いたことになります。問いというのは自発的に出せるものではなく、ふと「湧いてくる」、あるいは自分が「捕えられる」ものなのだと改めて気づきました。

昨年あたりから「その場や土地でしか考えられないこと」(=ローカル性)に強く興味を持つようになりました。哲学対話のテーマは自由に決めることができますが、せっかくだから会場ならではの問いにしたいと思う方もいるのでは、と思います。しかし「この場所でしか考えられないこと」を探すのは結構難しいです。今回だったら例えば「宗教とは何か」「死後の世界はあるか」などの問いだったらお寺と関係しているのではないか、と言えそうです。しかし一方で、別のお寺でもそれらのテーマは考えられる、という点ではその場所で考える必然性はないとも言えます。

「哲学の問いは普遍的なものだから、この場所でしか考えられない問いを求めるのはナンセンスではないか」と思う方もいらっしゃると思います。しかし「普遍的だけれどもこの場所でしか考えられない」問いがあるのでは、と私は思います。「この場所でしか考えられない」というのが気に入らなければ、「この場所だからこそ活きる」問いと言い換えてもいいかもしれません。そのような問いは、その場に身を置くことでしか得られないように思います。そこでは問いを立てるスキルのようなものは役に立たず、問いが自分を捕えるまでじっと待つことが必要なのかもしれません。

もう一つ付け加えるなら、今回の哲学カフェでも、参加者の経験や意見を聞くと様々な問いが浮かび上がってきました。それまでは問いがなかなか出ずに困っていたにもかかわらず、です。これも「その場だからこそ考えられる」ということなのでは、と思います。これらの「ローカル性」(と言い換えてよいのかはまだわかりませんが)を大事にすることが街中で哲学する面白さでもあり、重要さでもあるのではないか、と最近考えています。

(おわり)