哲学カフェはなぜ「カフェ」なのかー「カフェ性」の探究へ①

突然の話で恐縮だが、「メイドカフェはメイドなのか?」と問われたらあなたはどう応えるだろうか。「いや、メイドカフェはメイドのいるカフェであって、メイドカフェ自体はメイドではない」と応えるのではないだろうか。これは当たり前の話で、多くの「カフェ」イベントに当てはまることだ。「猫カフェ」は「猫とふれあえるカフェ」であるし、「サイエンスカフェ」は「科学的なトピックについて議論するカフェ」という具合に。

しかし、「哲学カフェ」の場合は少し状況が異なるように思う。というのも「哲学カフェは哲学なのか?」という問いはそれなりに自然だと思うからだ。もちろん哲学カフェは、「哲学的な議論や対話ができるカフェ」や「哲学者がいる(哲学者になれる)カフェ」と説明ができるかもしれないし、あるいは「哲学カフェでのやりとりのどこが哲学なのか?」と別の形で問いを言い換えることもできるだろう。

とはいえ「哲学カフェは哲学なのか?」という問いが(少なくともメイドカフェの例より)自然に聞こえるのは、「哲学カフェでのやり取りそれ自体が哲学である」というような主張が背景にあるからではないかと私は考える。もう少しいうと、この問いはどちらかといえば「〇〇哲学は哲学なのか」といった、哲学のアイデンティティをめぐる問いに近いといえるのではないだろうか。

また、このように考えたとき、哲学カフェにおける「哲学」と「カフェ」の関係は、上にあげた「メイド」と「カフェ」の関係や、「サイエンス」と「カフェ」の関係よりも、もう少し分かち難く結びついている、と私は感じる。

ところで、なぜ哲学カフェは「カフェ」で行われるのだろうか。それは当然、マルク・ソーテがカフェ・デ・ファールで議論を始めたことがきっかけなのだろうが、その後もこのイベントの多くは変わらず「カフェ」で開かれている。「哲学カフェ」といいつつ、明らかにカフェとはいえない場所で開かれている例も数多くあるが、その場合も「カフェ的な雰囲気」を出そうと工夫しているところがほとんどだと思われる。ここには明らかに哲学カフェが「カフェ的」であることに価値が見出されている。それはなぜだろうか。

哲学とカフェは「なぜ」あるいは「何が」結びついているのだろうか。この問いを考えるにあたって、これまで哲学カフェのどこが「哲学的」なのかについてはそれなりに議論がされてきたと思うが、どこが「カフェ的」であるのか、そしてそれがどのように意味があるのか、ということについてはあまり議論がされてこなかったように思える。私は哲学カフェを開催するなかで、このいわば「カフェ性」の問題について関心を持つようになり、実践のなかでこの問いを探究してみたいと考えるようになった。

この記事では「カフェ性」の問題について、今のところの私の考えをまとめておきたい。私の勘が正しければ、この「カフェ性」の問題を考えることは哲学カフェにおける「哲学」の理解にもつながるのではないかと考えている。

ソクラテスのカフェ

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