哲学カフェはなぜ「カフェ」なのかー「カフェ性」の探究へ④

前回の記事で、カフェという場のもつ「コード」について書いた。

前の記事にも以下のように書いた通り、カフェのコードと哲学カフェの「ルール」は共通している。このことについて最後に考えたい。

哲学カフェで説明される「大切にしていること」や「ルール」は、より安心できる場であったり、より良い議論や対話をするために設定されている。もう少しざっくりまとめると、よりよい「探究の場」をつくるために設定されていると言ってもよいだろう。ここで、これらの多くが哲学カフェ特有のルールではなく、「カフェのコード」と共有されているという点を確認しておきたい。すなわち、よりよい探究の場をつくるために「カフェのコード」が大切とされる、ということである。

「ほかにこのような場所がないから」

哲学カフェの参加者から聞く感想として多いのが、「他にこんな場所がなかった」という声である。この表現について、『哲学カフェのつくりかた』のなかで本間氏が次のように書いている。

哲学カフェのつくりかた (シリーズ臨床哲学)

哲学カフェのつくりかた (シリーズ臨床哲学)

 

「ほかにこのような場所がないから」ー哲学カフェに参加するひとびとは、哲学カフェにくる理由の一つをこう表現する。一見、消極的にも映るこの言葉は、哲学の営み、あるいはその発端を、正確に言い表していると私は思う。哲学することは、ほかの場所では求めることのできない何かを、〈いまここ〉で追究するときに始められる。そこに哲学の不思議さがある。(『哲学カフェのつくりかた』p.230)

この意見に私は共感するものの、この感想を哲学の営みと結びつけることについては、もう少し留保したい気持ちがある。というのも、私には「ほかにこのような場所がない」というのは「カフェ的な場所がこれまでなかった」ということと同義に思われるからだ。というのも、そのような感想を抱く人からは、「普段の生活では話せないような話ができた」「色々な意見が聞けた」「自分の話を聞いてくれた」という感想も同時に頂くことが多いからである。これまで書いてきたように、これらは哲学カフェ特有の感想というよりは、「カフェのコード」の力によるものだといえる。*1

「カフェのコード」と「哲学のコード」

「ほかにこのような場所がない」というのは、哲学カフェのカフェ的な面を捉えた感想である。このように書くと、それとは別に「哲学」的な面があると考える人がいるだろう。しかし、このシリーズの冒頭で書いた通り、この二つを切り離して考えることはできない、と私は思う。カフェのコードのもとで、哲学カフェにおける哲学は成り立っているし、哲学カフェで哲学するためには、カフェのコードが必要とされるのである。*2「ほかにこのような場所がない」というのは、カフェ的な側面を言い表したものであると「同時に」哲学することの発端を言い表したものでもある、と私は考えたい。

はじめて哲学カフェに参加したとき、その「場」の不思議さに驚いた。テーマについて実感を持ったさまざまな声が飛び交い、その声が他の人の思考に影響を与えていく。自分が何か意見を言う度に、その場から返ってくる「何か」の反作用を強く感じた。理路整然と、直線的に議論が進むわけでは必ずしもないけれど、もっと力強い何かがその場で生まれていくように私には思えた。

そこで起こっていることを「対話」と表現する人もいるだろう。しかし、近代的に想定されるような自律的で強い「主体」が意見を交わすことで何らかの考えが生まれるというよりも、哲学カフェではもっと複雑に、様々なものが溶け合って一つの場が生まれ、そこから流れ出たものに参加者が影響を受けているように思えた。*3それ以来、私は哲学カフェのような「場」にずっと関心を持ち続けている。

この「場」について考えるために、「カフェのコード」について書いてきた。まだ十分に吟味できているとは思えないが、現在の自分の考えをとりあえず記すことにした。ここまで読んでいただいた方の中には「じゃあ、カフェ的な部分が哲学することにどう影響を与えているんだよ」と思われる方がいると思うが、この点はまだ吟味が必要なところである。カフェのコードは様々なしがらみから「解放」されるために機能しているといえるが、「哲学する」ために必要な規範(=コード)と、カフェのコードが共通しているとすれば、この「解放」が暫定的なキーワードになるのではと思う。今後は「哲学すること」における「解放」の意味について考えていきたいと思う。

(おわり)

*1:ちなみに、哲学カフェが日本に広まった2000年代は、サイエンスカフェなどの他の「カフェ」イベントが広まった時期とも重なっている。肩書きに関係なく誰でも自由に意見が言える「カフェ」的な場に哲学カフェではじめて出会ったという人も多いだろうが、他の「カフェ」イベントでもそれに近いことが起こると私は思う。

*2:メイドカフェではメイドのためにカフェはたぶん必要とされない。(カフェでなくともよい)

*3:このような理由から、個人的にはあまり「対話」という言葉を使わないようにしている。使うときはほとんど便宜的な場合だけ。