びわ湖に浮かぶ沖島で「哲学ツーリズム」の練習をしてきた(後編)

沖島での「哲学ツーリズム」練習、前編はこちらから。

沖島を散策

沖島についたので島をぐるっと回ってみました。こんな様子。

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郵便局がありました。めっちゃ普通です。

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沖島には「ケンケン山」という山があります。低い山っぽいので登ってみることに。山道(というほど整備されていない)を登って行くとこんな看板が。哲学ツーリズム用?(笑)

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森の奥を進んで行きます。思ったより道が険しく、しかも人がいないので不安になってきました。あとアブが多い。やたら多い。

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しばらく進むと見晴らしのいい高台へ。ここで持参したおにぎりを食べました。

適当なところで下山しようと思ったのですが、一向に下山する道にたどり着きません。この辺から単純に疲れてきたので問いを考える余裕がなくなってきます(笑)

ゾウみたいに見えた木の根。

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結局30分以上かけてなんとか下山。というか近くの民家の畑に出ました。(写真は流石に撮れず)

疲れたので島にあるカフェ「いっぷくどう」でちょっと休憩。店主から島の見どころを聞きます。島を訪れる人はだいたい次の船が来るまで(2時間ぐらい)で観光して帰ってしまうようで、釣り人以外で長居する人は珍しそうでした。

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店を出て、カフェ店主に教えてもらった弁財天(厳島神社)に行ってみました。

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 この辺りでポツポツ雨が降ってきました。船の時間が迫ってきたこともあり、港に戻って島を後にしました。

「問い」を更新していく

こんな感じのルートで散策しながら、はじめに決めた「平和とはどのような状態か?」という問いについて自問自答していました。修行みたいです。メモした内容を振り返ります。

ー 平和とはどのような状態か?

ー 争いのない状態。

ー 争いがない状態は常に平和か?

ー 今日駅で乗り越し精算をした時に、行列ができていて間に合わないかもと焦り少しイライラした。このときは表面的には争いがないのにもかかわらず平和とは感じなかった。

ー ということは、争いがなくても常に平和であるとは言えないということか。

ー そうだと思う。

ー 先ほどは「イライラした」ために平和だと感じなかったということか。

ー そうではないかと思う。

ー 「平和である」ということには自分の心の状態が関係するか?

ー「実家に帰って平和だと感じた」という当初の例では関係すると思う。自分の心が穏やかでないと平和だと感じない。

ー 後半の一文は平和一般に関しても言えるか?

ー 言えると思う。平和は何かと何かの関係性であり、一方が自分である場合は、少なくとも穏やかであることが必要ではないか。

このようなことを考えながら、ケンケン山の山道を歩いていたところ、倒木がまるで鳥居のように見えました。自分のことを受け入れてくれているような気がするのと同時に、張り詰めた緊張も感じました。

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ここに来て、「緊張関係の中での平和もあるかもしれない」とふと思い直しました。同時に、今までは平和を(少なくとも一方は)穏やかなものとの関係として捉えていたことに気づきます。もう少し考えると、自分の中には「平和とはなんらかの静的な状態である」という隠れた前提(アサンプション)があったのではないかと思い至りました。

ここで自分が探究したい問いが「緊張関係や動的な状態の中での平和はありうるか?」へ変わってきました。例えば「冷戦状態が平和といえるか」みたいな大きな話にも繋がる問いですが、どちらかというと環境や他者と自分との関係を考えてみたいと思いました。

ここまで考えたところで残念ながら時間切れになりました。

ふりかえって

実際に哲学ツーリズムの練習をしてみて、旅先で見たものや感じたことが、自分の考えたい問いに(自問自答とはまた違った形で)ヒントを与えてくれることを実感しました。これらは偶然出会ったものであり、別の場所に行けばまた違うヒントを得られたのではないかと思います。そういう意味で、哲学ツーリズムでは出かけたその場所に応じた仕方で、自分の問いを更新していくことができると思います。

自分以外の他者からヒントを得る、という点は対話も同じだと思います。実際、今回自問自答しているよりも他人と対話している方が前提に気付きやすいという(当たり前のこと)を再認識しました。哲学ツーリズムは複数人でやった方が得られるものが多いと思います。

じゃあわざわざ旅に出なくても哲学対話してればいいんじゃないか、という意見もありそうですが、旅先の環境から受ける刺激は一つの場所で対話しているよりも多くのヒントを与えてくれると思います。旅先の環境自体が多くの気付きを与えてくれる「大いなる他者」になっていると考えれば、哲学ツーリズムのプロセス全体を一種の対話と捉えることもできるのではないでしょうか。

夏頃に本番?をやってみる予定ですので、このあたりはもう少し考えてみたいと思います。

(おわり)