ひとの「余白」を奪うな

 Lexicon 現代人類学を読みはじめたのだが、2章の「レヴィ=ストロース構造主義」の記述にさっそく目が止まった。筆者の出口氏は、レヴィ=ストロースは『神話論理』において「神話を語り伝えることで新世界先住民が培うモラルと同調すること」を目指していると指摘する。

彼らのモラルとは「人間のまえにまず生命を、生命のまえには世界を優先し、自己を愛する以前にまず他の存在に敬意を払う必要がある」という「正しい人間主義」である。(...)この教えは、世界をわれわれという存在で充満させ飽和させるのではなく、それを嫌悪し、充満しそうになると引き返そうとし、空隙や真空の余地を作る作法を説く。

「われわれ」による世界の飽和は破壊的である。なぜなら飽和は他者を受け入れる余地を認めず、かつてのナチズムのように他者を排除しようとするからである。一方引き返す作法によって、空隙や真空を他者のためにとっておくというのが、新世界先住民のモラルである。(p.16)

正直『神話論理』の内容はよく知らないのだが、最近「余白」について考えていた自分にとって、「空隙や真空を他者のためにとっておく」という考え方は共感できるものだった。

「余白」から生まれるもの

先日、滋賀県にある沖島で「哲学ツーリズム」を実施した。「問い」とともに旅に出て、自分の問いについて徹底的に考えよう、という企画だ。

沖島に行くには近江八幡の駅から少し離れた港に向かう必要がある。レンタカーを借りて向かったのだが、運悪く渋滞に捕まってしまい、目指していた船の出発時間に到着することができなかった。

次の船の時間までは、あと2時間もある。

普通のツアーだったら完全な失敗だろう。しかし参加者の皆さんは怒ることもなく、この空き時間をどうするか、一息ついてみんなで考えることができた。最終的には、港の近くで予定にはなかった別のアクティビティ(哲学ウォーク)を行うことになり、これが思いのほか多くの示唆を与えてくれた。案外、計画通りに島で時間を過ごすよりもよかったかもしれない。

そもそも、なぜ「哲学ツーリズム」という奇妙な企画を思いついたかといえば、自分が哲学的思考と周囲の環境の関係に興味があったからであり、「ひとはどのようなときに(どのようなところで)哲学するのか」ということを考えたかったからである。もしかすると様々な「余白」がその条件ではないか、いう仮説にこの旅で思い至った。自分が開催している哲学カフェも、その性質に関心のあるカフェなどのサードプレイスも、どちらも日常生活から切り離された「余白」を提供しているという点では共通している。

「余白」ができることで何が生まれるのか。逆説的になるが、ひとは基本的に「余白」には耐えられないのだと思う。耐えられないから、普段とは違うやり方をしてでも(空間的、あるいは時間的な)「余白」を埋めようとする。何かをつくってみたり、遊んでみたり、いろいろな方法があるだろう。もしくは普段考えないようなことを考えたり、一般に「対話」とよばれる状態が生まれるかもしれない。哲学ツーリズムでは船の待ち時間という「余白」に耐えきれずはじめたアクティビティが、結果的にはよい時間を生んでくれた。

冒頭の「空隙や真空を他者のためにとっておく」という話に戻ろう。「余白」に耐えられないのならば、他者が自由な仕方で埋めようとしている「余白」を、誰かが先に埋めてしまうということも起こるだろう。例えば哲学カフェにおいて、参加者が言葉を探しながら沈黙したり、言い澱んでいるときに、誰かが「こういうことでしょ?」と発言したり、自分の発言をしたり、という例を数多くみてきた。これらは他人の「余白」を奪う行為だと思う。ときに効率性や合理性の名の下に、誰かのものだったかもしれない「余白」を埋めてしまう行為の例は、日常生活においては、むしろいくらでも見つけられるかもしれない。

「空隙や真空を他者のためにとっておく」ということは、つまり「ひとの余白を奪うな」ということだ。この考えは、なるほどある種の倫理として成り立つかもしれないと感じた。 自分も知らないうちに誰かの「余白」を奪っていないか、気をつけよう。

※写真は沖島での風景。梅干しが作られていた。

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Lexicon 現代人類学

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 (おわり)