感想:「ナラティヴ・コミュニティを、まなぶ。」

先日「ナラティヴ・コミュニティを、まなぶ。」というイベントに参加してきました。

ナラティヴコミュニティを、まなぶ。

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ひょんなことからお声掛けをいただき、哲学カフェの紹介を行うために登壇?することに。自分としては以前から哲学カフェ(及びその他の哲学実践)と当事者研究自助グループ等の類似点を考えたいという思いがあり、よい機会をいただきました。当日の感想を書きたいと思います。

活動紹介をした団体

当日は9つの団体が簡単に活動紹介を行った後、意見交換に入るという流れでした。活動紹介した団体のリンクを掲載しておきます。

NPO法人 ウィークタイ

●カフェフィロ

●薬物依存回復施設・木津川ダルク

●QWRC(クオーク

NPOそーね

●づら研(NPO法人フォロ)

サークルクラッシュ同好会

●市民団体 Re-Design For Men

※何故かうまくリンクできず。ページはこちらから。


●メンズサポートルーム

メンズサポートルーム〜ドメスティックバイオレンス(DV)加害男性のための脱暴力プログラム〜

自分の活動紹介について

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カフェフィロの紹介では団体の活動紹介を行った後、上のようなスライドを使いました。そもそも哲学カフェはこのイベントの趣旨である「ナラティヴ・コミュニティ」に該当するのか、という素朴な疑問が当初からありました。哲学カフェは見ず知らずの人が集まる場所であり、参加者の入れ替わりも激しくコミュニティとしては一見成り立っていないように思えます。一方で、哲学カフェの中での参加者の関係性をみるとある種の結びつきを感じるときもあり、日本の哲学カフェはコミュニティを形成している、といいたくなることもあります。日本では参加対象を特定のメンバーに限定している哲学カフェも結構ありますが、そうでなくてもメンバーシップ的な関係が生まれるのはなぜなのでしょうか。

日本の哲学カフェでは、自分の経験を開示しながらテーマについて考えることや、互いがケアしあうことが重視される傾向があります(もちろん例外もありますが)。また「哲学的なテーマについて関心を持ち考えること」、もしくは「日常の関係を離れて自由に語ること」それ自体が日本ではあまりメジャーであるとはいえないため、そのような状況に生きづらさを感じている人たちが哲学カフェには集まる傾向もあると思います。このような要素が参加者同士の関係性を強めることで、日本の哲学カフェをコミュニティ的にしているのではないか、と私は考えています。

ナラティヴという点で考えると、ある種の同質性を前提とした関係における「語り」と、素性もわからない異質な他者との関係における「語り」は別の性格を帯びてくるのではないかと思います。個人的には、開かれた場とコミュニティの中間に位置するような日本の哲学カフェを「半分開かれた場」と位置づけ、そこでの語りについて積極的に捉え直したい思いがあります。…と、だいたいこのような感じのことをお話ししました。

意見交換の感想

主催者側が用意したテーマは2つでした。とはいえ非常に漠然としたテーマ(これは意図的な設定)のため、色んな方向へ話は展開しました。議論は「フィッシュボウル」形式で、登壇した9つの団体の代表者が議論し、意見があったら周りの人も輪の中に入って発言OK、というものです。

  1. なぜグループなのか?
  2. なぜグループは維持されているのか?

「なぜグループなのか」という点に関しては「いろんな男性がいる、ということに気づける。一対一のカウンセリングではそのことになかなか気づけない。」というメンズサポートルームの方のご意見や、「病院では治せないが、グループや場の力によって助けられる」という木津川ダルクの方の話が印象に残っています。(議事録では発言者は非公開とされていますので、名前は記載しません。)「なぜグループは維持されているのか」ということに関連した話では、既存のグループが気に入らなかったりして自分で新しいグループを立ち上げる動きが結構多くの団体である、ということが興味深かったです。

その他、当事者性と権力に関わる話や、団体の運営の話など、どの話も面白かったのですが、詳しくはそのうちアップされる(?)公式な報告を見ていただければ。

「安心・安全」に関して

今回特に中心的な話題になったのが「安心・安全な場」をどうつくるか、ということで、フロアからも活発な意見が出ました。発言者や各団体の方が考える「安心・安全」という言葉の意味やスタンスがそれぞれ微妙に違うように感じたので、このあたりを深掘りすると結構面白いのではないかと思いました。

私は当日セキュリティとセーフティの区別について発言しましたが、このことについては「こどものてつがく ケアと幸せのための対話」に出てくる本間氏の発言がわかりやすいと思うので紹介しておきます。ハワイの「こどもの哲学」で重視される「セーフティ」(特に「知的な」セーフティ)について述べられた箇所で、セキュリティとの違いがふれられています。

セーフティはクリシュナムルティの批判するセキュリティとどうちがうのか。わたしは、安全、安心という語ではなく、「大丈夫か」「大丈夫と思えるか」ということばづかいと気づかいを通して、セーフティを実演、実行するようにしている。「安心できる」という、今日よく用いられるフレーズは、信頼しあいながら探究に向かう態度というよりも、守られて居心地にいい状態にとどまり、どちらかといえば他人と没交渉になる状態と理解されやすい。「安心」という語は「守られている状態」「居心地のよさ」、つまりセキュリティと混同され、他人とのあいだにある垣根を越えるよりは、それに守られることを望む状態として受け取られやすい。

学校の教員やわたしの授業を受ける学生はしばしば、(じぶんが)セーフであるためにはルールが必要だ、という。その場合、たいがいセキュリティのことが思い浮かべられていて、危険や不安を排除するために何かすがれるものが必要だ、と言い換えられると思う。セキュリティは結局のところ、不安と怖れに支配されている。そしてその不安と怖れに対抗するために、何らかの力に依存し、厳しいルールに服従しなければならない。〈知的なセーフティ〉は、そのようなセキュリティとは区別された、〈解放された知の態度〉だとわたしは思う。(上掲書、p.295)

もちろん、会の趣旨やメンバーの事情に応じて、参加者を守るための相応のセキュリティは必要になりますし、そのことを否定するつもりはありません。しかし語りの場で参加者に何らかの変容が起こるとき、そこにはセキュリティを超えたある種の「踏み越え」が必要になるのではないかと思います。それぞれの主催者や参加者が「安心・安全」をどう考え、何が脅かされたときに「安心できない」「安全でない」と感じるのか、そしてその要因は会にとって必要なことなのか…などを自覚的に考えることが大事ではないかと感じたため、当日このような発言をしました。

おわりに

「ナラティヴ・コミュニティを、まなぶ。」のようなイベントはこれまでありそうでなく、類似した活動を行う団体がこれだけの数あるのだ、ということを知ることができただけでも大きな意義があったと思います。主催者の皆様ありがとうございました。

今回はどうしてもオードブル的になりがちで、それぞれの団体の考えや方法論について深く知る時間が少なかったので、次回があるならメインで話してもらう団体を絞って、他の団体が質問をするなどして深掘りしていくような形式でも面白いのではないかと思います。大変だと思いますが、今後もこの試みが続くことを願っています。

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

 

 (おわり)