はれ ときどき てつがく

ちいさな「てつがくする」をさがして

知と愛に関する探究メモ(南区DIY読書会より)

以下、「南区DIY読書会」という集まりで発表した文章を転載する。(一部加筆修正あり)主催のカサ・ルーデンスの情報はこちらから。

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この読書会は各自が関心のある本を読んできて発表する形式をとっていて、僕は現在『ソウル・ハンターズ』を少しずつ読んで発表している。

ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学

ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学

 

この本はロシア連邦サハ共和国に居住するシベリア先住狩猟民「ユカギール人」 の生活や思考様式について記録・考察している。彼らは主な獲物であるエルクという動物の狩りの場面など、特定の文脈で動物を「人格」として捉えており、狩りの場面では動物を(性的に)「誘惑」することが必要になる。狩猟者はときにエルクに対して「恋に落ち」、友人や恋人に近い「愛」の感情を抱くこともあるが、それが長く続くと狩りが失敗するだけでなく、やがて狩猟者自身の命が失われると考えられている。

以下は本書における「愛」の考えの感想を絡めて、哲学や対話における「知と愛」について考えたメモである。(色々と散らかっているのでご了承ください)

西田幾多郎の「知と愛」

西田の『善の研究』の最後に「知と愛」という章がある。この章だけ全体から独立した文章になっていて、西田哲学の用語を理解していなくても比較的楽に読める。この章は以下のような文から始まる。

知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。

然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。(以下、引用は全て青空文庫より)

西田によれば知が主客合一といえるのは、物の真相を探究するときに自己の主観を排し、客観的に物に関わるからである。(これは一般的に言われる「客観的」とは少し違うのだが、説明は省略する)また「愛する」ことについては次のように言われる。

我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。 

「花を愛する」とは「自分が花と一致する」ことだ、と聞くと、以前の自分だったら「西田が何かヤバいことを言っている」と感じて拒絶反応があったのだが、これは要するに、「愛する対象と自分が切り離せない関係にある」ことだと最近考えるようになった。

「物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ」と西田は続ける。ある対象の本質を知ろうとするとき、その対象を自分とは切り離されたものとして分析的に観察するだけでは不十分であり、その対象に深く関わる、あるいは「生きる」必要があるのだろう、と思う。そのとき自分と対象は切り離せない状態になり、対象について探究することは自分自身を変容させていくことになる。 

また、西田は次のようにも述べている。 

余の考を以て見ると、普通の知とは非人格的対象の知識たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。両者の差は精神作用その者にあるのではなく、むしろ対象の種類に由るといってよろしい。而して古来幾多の学者哲人のいったように、宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であって実在その者を捕捉することはできぬ。我々はただ愛に由りてのみこれに達することができる。愛は知の極点である。 

この指摘は、『制作へ』の中で上妻世海が取り上げるヴィヴィイロス・デ・カストロの議論と共鳴している。ヴィヴィイロスは『アメリカ大陸先住民のパースペクティズムと多自然主義』のなかで、西欧近代(客観主義的)の認識論とアメリカ大陸先住民のシャーマニズムを対比している。前者において、知ることは対象を脱主体化し「客体化」することとされるが、アメリカ大陸先住民のシャーマニズムでは知ることとは「人格化」することであり、「知られるべきあちらー向こうというより、あの者のー視点に立つこと」であるとされる。上妻はこの指摘を受け次のように書いている。 

ヴィヴィイロスのこの指摘はとても興味深い。僕には、これは西欧近代主義者とアメリカ大陸先住民のシャーマニズムの「知ること」に対する態度の差異を単に示しているのではないと感じられる。何故なら、哲学とはそもそも「知への愛」を意味していたのだから。つまり、現在のように、多くの知識によって対象を詳細に記述し分類することが「知ること」ではなく、愛することが「知ること」であると、西洋近代の源流にある古代ギリシアの哲学者たちは知っていたのである。

「芸術作品における「魅惑の形式」のための試論」(『制作へ』p.188)

これまでユカギールのエルク狩りにおいて、動物が人格化されるプロセスを見てきたが、これは狩りを成功させるためにエルクを深く「知る」必要があったからだろう。西田やヴィヴィイロスに従えば、エルクを「知る」ためにはエルクを人格化し、「愛する」ことも同時に必要になることになる。

「誘惑」について

さて、ユカギールのエルク狩りにおいて「愛」や「恋に落ちること」は危険なことだとみなされており、あくまで「誘惑」にとどまることが重要だとされていた。愛は「自分から他者への移譲」であり、自己を無くして完全に他者へと「変身」してしまうことであるからだ。(なお「誘惑」は相手のパースペクティブを取り込む「模倣的共感」の能力と結び付けられる。)

狩りにおいて、エルクをこちらの方におびき寄せるには、狩猟者がエルクを「愛している」ということをエルクに感じさせ、エルクもまた狩猟者を「愛する」ように仕向ける必要がある。ウィラースレフはこれを「誘惑のゲーム」だとしており、形式的には「偽りの愛」だと考えている。しかし彼も認める通り、誘惑のゲームにおいて「愛」と「誘惑」の境界ははっきりしない。個人的には「誘惑」を成功させるには愛、少なくても偽りの愛から半歩踏みこんだような関わり方が必要なのではないか、と思う。実際にはエルクに対する「愛」の感情が生まれていることを狩猟者も認めており、彼らはエルクを殺すことでその感情をリセットし、生活を継続することができる面もあるだろう。

オープンダイアローグにおける「愛」

「知ること=愛すること」と、対象を人格化することが密接につながっているとすれば、それはやはり対話的な関係とも密接に関わっていると思う。ここでオープンダイアローグの提唱者であるセイックラ氏が「愛の体験」ついて述べたテキストを紹介する。

多くのミーティングに参加した経験をじっくりと検討してみた結果、私(セイックラ)には次のようなことがわかってきました。ミーティングにおいて感情プロセスが出現したら、それはモノローグからダイアローグへの意向を示すサインである、ということです。つまりそのミーティングは、きっと生産的で役に立つものになるだろう、というサインなのです。

その時の参加者の言葉や仕草は、強い感情の表現へと変わっていきます。それは、当たり前の言葉で言うなら、愛の体験というほかはない感情です。(p.168)

Seikkla 2005、訳とページは斎藤環『オープンダイアローグとは何か』より)

具体例としてあげられているケース(過去に暴行を受け、そのフラッシュバックが繰り返される中で家族との関係も希薄になっていった女性の例)では、ミーティングの中で家族がお互いのことを離れていても思い合い、愛していることが明らかになった。このときミーティングに参加するセイックラも、自分の感情がこの部屋を満たしている感情と共鳴しあっていくのを感じたという。セイックラはバフチンを援用し、このような体験が身体を持つ存在として対話に参加するという「存在の一回性の出来事」に由来すると指摘している。これは同じ空間を共有しない中立的な観察者には不可能な経験である。

ミーティングの際に私たちのなかに生まれる愛の感覚は、決してロマンティックでもエロティックでもありません。愛の感覚とは、意味を共有する世界に参加したことで生じる、身体レベルでの反応のことだからです。その世界は、お互いに信頼しあう人々と、互いにフェアで包括的な存在である私たちとが協力して生み出されたものです。(pp.167-168) 

セイックラが愛の瞬間として例に挙げている具体的な状態は、例えば「分かち合い一体となりつつあるという強い集団感情、あふれ出すような信頼感の表明、感情の身体的な表現、緊張がほどけ身体がくつろいでいく感じ(p.177)」である。オープンダイアローグに限らず、対話の実践者であればこのような状態と「場の深まり」に関連があることについて直感的に同意できる人も多いのではないかと思う。

おわりに

哲学は「知への愛」だが、正直にいうと、このときの「愛」が何か、僕はよくわかっていなかった。(今もよくわからない)もし「知る」ためには「愛する」ことが必要であり、対象と自分が切り離せないような探究のあり方が必要とされるのなら、対話に出会うまでの自分はまさにその対極にある、対象を自分を切り離し分析する「非人格的」な知しか見ていなかったのではないか、と今では思う。そして「愛」が人格的対象に関する知であれば、「人格」と対話することが哲学において重要であったことも頷ける。

ここまで書いたが、「愛」は曖昧な概念なので、結局その正体が何かについてはまだよくわかっていない。特に、対話における「愛」が実際のところ何を意味しているか(例えば「共感」とどう違うか等)についてはさらに考えていきたいと思う。

制作へ 上妻世海初期論考集

制作へ 上妻世海初期論考集

 
オープンダイアローグとは何か

オープンダイアローグとは何か

 

 (おわり)

「オマ・ラウハ」の精神:こばやし あやな「公衆サウナの国 フィンランド」

今年の初めから京都・五条楽園にある「サウナの梅湯*1」にちょくちょく通っているのですが、そこでこんな本を売っていたので思わず買ってしまいました。表紙が素敵です。

公衆サウナの国フィンランド: 街と人をあたためる、古くて新しいサードプレイス

公衆サウナの国フィンランド: 街と人をあたためる、古くて新しいサードプレイス

 

フィンランドはいうまでもなくサウナ(sauna)発祥の地として有名ですが、現地のサウナの数は20世紀にかけて減少の一途をたどっていたようです。しかし2010年代に入ると、公衆サウナの魅力や意義が見直され、新しい施設が次々にオープンするなど再興の兆しが。同書はフィンランド・サウナの魅力にとりつかれ、現地の大学院でサウナを題材に修士論文まで書いた筆者が、フィンランド・サウナの魅力と街づくりに果たす役割について紹介した一冊です。同書ではフィンランド・サウナの概要紹介にはじまり、日本の銭湯との共通点、ヘルシンキ公衆サウナの歴史や最新の動向について紹介されているほか、近年の「サウナ・ルネッサンス」現象を支えた立役者たちのインタビューも掲載されており、フィンランド・サウナへの入門としてとても興味深い内容になっています。

詳しくはぜひ読んでいただきたいのですが、地域住民の手によって復活したサウナや、「アナーキー・サウナ」ともよばれる管理人不在の無料サウナ(!)など、単に商業施設的でない個性あふれるサウナも数多く紹介されており、その背後にあるフィンランドの文化も含めてとても魅力的な一冊でした。

やすらぎ/きよめ/いやし/たのしみ

フィンランド・サウナでは見ず知らずの人が同じ空間に集い、自然とコミュニケーションが生まれ、知り合い同士でも普段は話せないような会話ができる…などなど、このブログでも何度か取り上げている「サードプレイス」としてサウナが機能していることがわかります。サードプレイスとしてのサウナの様子がわかる映像をみつけたので紹介しておきます。

 

さて、同じ「裸の付き合い」の場として、フィンランド・サウナと日本の銭湯には共通する文化も多いです。同書では両国の公衆浴場文化の共通点として、建築家・道具学研究家である山口昌伴氏の指摘する「四つの価値」が紹介されています。

  • やすらぎ:心と体が緊張から解放される
  • きよめ:心と体が浄化される
  • いやし:心と体が患いから回復する
  • たのしみ:心と体が楽しむ

これらのうち「きよめ」は浴場特有の性質かもしれませんが、残りの3つはカフェや居酒屋など、他のサードプレイスにも当てはまる普遍的な特徴であるように思えます。

ところで、同書で取り上げられているサウナには、利用手順やマナー、禁止事項などの文字情報をあまり掲示していないところもあるみたいです。これは店側が利用者の振る舞いを規定しなくても、その場に居合わせた人が自然と見倣いあい、教え合うことで秩序が保たれるという考え方に基づいているということで、外国人向けの禁止事項の貼紙が目立つようになってきた日本の銭湯とは対照的であるように感じました。

フィンランドの人間関係においては「オマ・ラウハ(自分の平和)」という概念が重要視されるようです。これは自分の生き方を他人に干渉されたくない、という意味ですが、そこから「オマ・ラウハを守るために、他人に対しても寛容になろう」という価値観が生まれるそうです。「他者の生き方に寛容であれというこの価値観は、同時に、自分を取り巻く人びとに対する無条件な信頼を担保します*2」と筆者は指摘していますが、サウナでの寛容な雰囲気にもその精神が表れているように思いました。

この本を読んで日本の銭湯にも興味が湧いてきたので、まずは京都の銭湯巡りから始めようと思います(笑)

(おわり)

感想:「ナラティヴ・コミュニティを、まなぶ。」

先日「ナラティヴ・コミュニティを、まなぶ。」というイベントに参加してきました。

ナラティヴコミュニティを、まなぶ。

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ひょんなことからお声掛けをいただき、哲学カフェの紹介を行うために登壇?することに。自分としては以前から哲学カフェ(及びその他の哲学実践)と当事者研究自助グループ等の類似点を考えたいという思いがあり、よい機会をいただきました。当日の感想を書きたいと思います。

活動紹介をした団体

当日は9つの団体が簡単に活動紹介を行った後、意見交換に入るという流れでした。活動紹介した団体のリンクを掲載しておきます。

NPO法人 ウィークタイ

●カフェフィロ

●薬物依存回復施設・木津川ダルク

●QWRC(クオーク

NPOそーね

●づら研(NPO法人フォロ)

サークルクラッシュ同好会

●市民団体 Re-Design For Men

※何故かうまくリンクできず。ページはこちらから。


●メンズサポートルーム

メンズサポートルーム〜ドメスティックバイオレンス(DV)加害男性のための脱暴力プログラム〜

自分の活動紹介について

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カフェフィロの紹介では団体の活動紹介を行った後、上のようなスライドを使いました。そもそも哲学カフェはこのイベントの趣旨である「ナラティヴ・コミュニティ」に該当するのか、という素朴な疑問が当初からありました。哲学カフェは見ず知らずの人が集まる場所であり、参加者の入れ替わりも激しくコミュニティとしては一見成り立っていないように思えます。一方で、哲学カフェの中での参加者の関係性をみるとある種の結びつきを感じるときもあり、日本の哲学カフェはコミュニティを形成している、といいたくなることもあります。日本では参加対象を特定のメンバーに限定している哲学カフェも結構ありますが、そうでなくてもメンバーシップ的な関係が生まれるのはなぜなのでしょうか。

日本の哲学カフェでは、自分の経験を開示しながらテーマについて考えることや、互いがケアしあうことが重視される傾向があります(もちろん例外もありますが)。また「哲学的なテーマについて関心を持ち考えること」、もしくは「日常の関係を離れて自由に語ること」それ自体が日本ではあまりメジャーであるとはいえないため、そのような状況に生きづらさを感じている人たちが哲学カフェには集まる傾向もあると思います。このような要素が参加者同士の関係性を強めることで、日本の哲学カフェをコミュニティ的にしているのではないか、と私は考えています。

ナラティヴという点で考えると、ある種の同質性を前提とした関係における「語り」と、素性もわからない異質な他者との関係における「語り」は別の性格を帯びてくるのではないかと思います。個人的には、開かれた場とコミュニティの中間に位置するような日本の哲学カフェを「半分開かれた場」と位置づけ、そこでの語りについて積極的に捉え直したい思いがあります。…と、だいたいこのような感じのことをお話ししました。

意見交換の感想

主催者側が用意したテーマは2つでした。とはいえ非常に漠然としたテーマ(これは意図的な設定)のため、色んな方向へ話は展開しました。議論は「フィッシュボウル」形式で、登壇した9つの団体の代表者が議論し、意見があったら周りの人も輪の中に入って発言OK、というものです。

  1. なぜグループなのか?
  2. なぜグループは維持されているのか?

「なぜグループなのか」という点に関しては「いろんな男性がいる、ということに気づける。一対一のカウンセリングではそのことになかなか気づけない。」というメンズサポートルームの方のご意見や、「病院では治せないが、グループや場の力によって助けられる」という木津川ダルクの方の話が印象に残っています。(議事録では発言者は非公開とされていますので、名前は記載しません。)「なぜグループは維持されているのか」ということに関連した話では、既存のグループが気に入らなかったりして自分で新しいグループを立ち上げる動きが結構多くの団体である、ということが興味深かったです。

その他、当事者性と権力に関わる話や、団体の運営の話など、どの話も面白かったのですが、詳しくはそのうちアップされる(?)公式な報告を見ていただければ。

「安心・安全」に関して

今回特に中心的な話題になったのが「安心・安全な場」をどうつくるか、ということで、フロアからも活発な意見が出ました。発言者や各団体の方が考える「安心・安全」という言葉の意味やスタンスがそれぞれ微妙に違うように感じたので、このあたりを深掘りすると結構面白いのではないかと思いました。

私は当日セキュリティとセーフティの区別について発言しましたが、このことについては「こどものてつがく ケアと幸せのための対話」に出てくる本間氏の発言がわかりやすいと思うので紹介しておきます。ハワイの「こどもの哲学」で重視される「セーフティ」(特に「知的な」セーフティ)について述べられた箇所で、セキュリティとの違いがふれられています。

セーフティはクリシュナムルティの批判するセキュリティとどうちがうのか。わたしは、安全、安心という語ではなく、「大丈夫か」「大丈夫と思えるか」ということばづかいと気づかいを通して、セーフティを実演、実行するようにしている。「安心できる」という、今日よく用いられるフレーズは、信頼しあいながら探究に向かう態度というよりも、守られて居心地にいい状態にとどまり、どちらかといえば他人と没交渉になる状態と理解されやすい。「安心」という語は「守られている状態」「居心地のよさ」、つまりセキュリティと混同され、他人とのあいだにある垣根を越えるよりは、それに守られることを望む状態として受け取られやすい。

学校の教員やわたしの授業を受ける学生はしばしば、(じぶんが)セーフであるためにはルールが必要だ、という。その場合、たいがいセキュリティのことが思い浮かべられていて、危険や不安を排除するために何かすがれるものが必要だ、と言い換えられると思う。セキュリティは結局のところ、不安と怖れに支配されている。そしてその不安と怖れに対抗するために、何らかの力に依存し、厳しいルールに服従しなければならない。〈知的なセーフティ〉は、そのようなセキュリティとは区別された、〈解放された知の態度〉だとわたしは思う。(上掲書、p.295)

もちろん、会の趣旨やメンバーの事情に応じて、参加者を守るための相応のセキュリティは必要になりますし、そのことを否定するつもりはありません。しかし語りの場で参加者に何らかの変容が起こるとき、そこにはセキュリティを超えたある種の「踏み越え」が必要になるのではないかと思います。それぞれの主催者や参加者が「安心・安全」をどう考え、何が脅かされたときに「安心できない」「安全でない」と感じるのか、そしてその要因は会にとって必要なことなのか…などを自覚的に考えることが大事ではないかと感じたため、当日このような発言をしました。

おわりに

「ナラティヴ・コミュニティを、まなぶ。」のようなイベントはこれまでありそうでなく、類似した活動を行う団体がこれだけの数あるのだ、ということを知ることができただけでも大きな意義があったと思います。主催者の皆様ありがとうございました。

今回はどうしてもオードブル的になりがちで、それぞれの団体の考えや方法論について深く知る時間が少なかったので、次回があるならメインで話してもらう団体を絞って、他の団体が質問をするなどして深掘りしていくような形式でも面白いのではないかと思います。大変だと思いますが、今後もこの試みが続くことを願っています。

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

 

 (おわり)

ラーメンと哲学カフェは似ている、という話

最近「麺なしラーメン」というのが登場しているらしい。

グッバイ罪悪感!女性の味方「麺なしラーメン」が今年ブームの兆し! - macaroni

「麺なしラーメン」とはその名の通り、「ラーメンから麺を抜いたもの」。つまりスープとトッピングのみのラーメンです。もはや「ラーメン」と呼べるのか疑問は残りますが、とにかくこの「麺なしラーメン」がじわじわと人気を集めているようです。(上掲記事より)

ラーメンといえば中国発祥だが日本で独自の進化を遂げ、今では様々な種類のラーメンが生まれている。スープのないラーメンはこれまでもあったが、ついに麺のないものまで現れたのか、という感がある。自分は「少なくとも麺がなければラーメンではない」だろうと思っていたが、記事には次のように書いてあり、なるほどと思った。

ドイツではラーメンを「麺なし」で注文したり、スープだけを飲んで麺を残してしまう方がいるそうです。そもそもラーメンは「麺料理」ではなく「スープ料理」だという認識があるためこのような食べ方をするのだとか。

ドイツ人に聞いたことがないので真偽の程はわからないが、確かにラーメンをスープ料理とみることは可能だろう。何をラーメンの本質とみるかは人によって違うのだ。

さて、「日本の哲学カフェ事情を教えてほしい」という風な依頼をたまに頂く。日本の哲学カフェは増加と多様化の一途をたどっており、「人が集まって何かについて話す」ことがギリギリ共通しているぐらいで、哲学カフェ一般について語ることはかなり難しくなってきている。このような状況をできるだけ手短に伝えるため、最近は「哲学カフェはラーメンと同じぐらい多様化しています」ということにしている。

哲学カフェ=ラーメン説。

考えてみれば、哲学カフェも海外(フランス)から輸入されたものが日本で独自の進化を遂げている、という点でラーメンと似ている。「これはラーメンなのか?」と思うような挑戦的な一杯が日々登場しているのと同じように、哲学カフェに関しても挑戦的な取組が次々と生まれている。哲学カフェの本質は「哲学」であったり「カフェ」であったり、はたまた別のものであったりと、人によって様々な解釈があるのだと思うし、ラーメンと同じように多様な解釈に開かれているからこそ、ここまで広がったのでは、とも感じる。

自分はどんな哲学カフェがしたいのだろうか。昔ながらの中華そばを極めるのか。ニューウェーブ的なラーメンを開発するのか。簡単には答えられないが、少なくとも食べ歩きは好きなのでこれからも続けたい。

ちなみに麺なしラーメンは結構イケます。

日清 麺なしラーメン 担々豆腐スープ 27g×6個

日清 麺なしラーメン 担々豆腐スープ 27g×6個

 
日清 麺なしラーメン 豚骨豆腐スープ 24g×6個

日清 麺なしラーメン 豚骨豆腐スープ 24g×6個

 

 (おわり)

手放せ、死ね、甦れ!〜「死の練習」としての哲学?〜

哲学する、というのは結局どういうことなのだろうか。哲学カフェなどなまじ「哲学」の名のつく活動をしているばかりに、「哲学って何することなんですか?」という質問をこれまで幾度となく受けてきた。いまでは「自分が当たり前だと思っていたことを立ち止まって疑い、その上で確からしいことを積み上げていくこと」という風に半ばテンプレート的に答えてはいるものの、何回聞いてもこの質問にはドキッとするし、いつも満足に答えられている気がしない。
 
ここで「立ち止まって疑う」ことと「確からしいことを積み上げる」ことを並べているのは、両者が別の方向性を持っていると思うからだ。哲学対話のなかで自分が満足感を覚えたときを振り返ると、自分が知らず知らず持っていた前提に気づいて、それを手放してみることができた場合と、自分一人では到達的なかったようなところまで探究が進んでいった場合があるように思う。これらは互いに絡み合っているものの、「手放すこと」と「積み上げること」が哲学する際に起こっていることでないか、と僕は暫定的に考えている。たぶん、人によってこのどちらを重視するかは違っており、「積み上げること」を重視する人は過去の哲学者たちの議論の蓄積を利用することで、より深く探究を進めようとするかもしれない。僕はといえば哲学カフェをはじめてから、「手放す」ということに強く興味をもつようになった。

死んで、甦るということ

ところで、ずいぶん前の話になるが、今年の3月に「南区DIY研究室」の「ツクレ、死ね、甦れ」というシンポジウムに参加した。

DIYというと自分で家具を作ったり、家をセルフリノベーションしたりと半ば「おしゃれ」な趣味になった感があるが、このシンポジウムは様々な物事がその道の専門家によって御膳たてされる(もしくは独占される)世界で、自らモノをつくることの根本的な意義について考える、という趣旨のイベントであり、自分の活動を考える上でも大いに得るものがあった。シンポジウムのタイトルの元ネタは「動くな、死ね、甦れ!」という映画*1だが、モノを「つくる」プロセスにおいて、モノや周囲の環境と自分との関係が更新されていくことが「死」と「甦り」で表現されている(のだと思う)。

さて、「哲学は死の練習である」というプラトン(の描いたソクラテス)の有名な言葉がある。自分は長い間、この言葉の意味についてピンときておらず、「なにスピリチュアルなことを言ってんだこいつ」ぐらいにしか思っていなかった。しかし上記のシンポジウムの話を聞いてから、自分に深く染み付き、自分と一体化しているような前提に気づき、それらを「手放す」ということは、一種の「死」に近い体験なのではないかと思うようになった。そしてその地点から新たに思考を立ち上げるということは、死から甦り、生き直すこととパラレルではないか、と。DIYシンポジウムのタイトルをもじるのであれば、「手放せ、死ね、甦れ!」である。

このような考えはプラトンが意図していた「死の練習」とはいささか違うかもしれないが、ここからどのような風景が見えてくるのか、今後じっくりと考えてみたいと思う。*2

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 

(おわり)

*1:

*2:多くの哲学対話において重視される「ケア」の概念は、このような「魂への配慮」としての哲学とも密接に関連していると思うが、まだうまく言語化できていない。

ひとの「余白」を奪うな

 Lexicon 現代人類学を読みはじめたのだが、2章の「レヴィ=ストロース構造主義」の記述にさっそく目が止まった。筆者の出口氏は、レヴィ=ストロースは『神話論理』において「神話を語り伝えることで新世界先住民が培うモラルと同調すること」を目指していると指摘する。

彼らのモラルとは「人間のまえにまず生命を、生命のまえには世界を優先し、自己を愛する以前にまず他の存在に敬意を払う必要がある」という「正しい人間主義」である。(...)この教えは、世界をわれわれという存在で充満させ飽和させるのではなく、それを嫌悪し、充満しそうになると引き返そうとし、空隙や真空の余地を作る作法を説く。

「われわれ」による世界の飽和は破壊的である。なぜなら飽和は他者を受け入れる余地を認めず、かつてのナチズムのように他者を排除しようとするからである。一方引き返す作法によって、空隙や真空を他者のためにとっておくというのが、新世界先住民のモラルである。(p.16)

正直『神話論理』の内容はよく知らないのだが、最近「余白」について考えていた自分にとって、「空隙や真空を他者のためにとっておく」という考え方は共感できるものだった。

「余白」から生まれるもの

先日、滋賀県にある沖島で「哲学ツーリズム」を実施した。「問い」とともに旅に出て、自分の問いについて徹底的に考えよう、という企画だ。

沖島に行くには近江八幡の駅から少し離れた港に向かう必要がある。レンタカーを借りて向かったのだが、運悪く渋滞に捕まってしまい、目指していた船の出発時間に到着することができなかった。

次の船の時間までは、あと2時間もある。

普通のツアーだったら完全な失敗だろう。しかし参加者の皆さんは怒ることもなく、この空き時間をどうするか、一息ついてみんなで考えることができた。最終的には、港の近くで予定にはなかった別のアクティビティ(哲学ウォーク)を行うことになり、これが思いのほか多くの示唆を与えてくれた。案外、計画通りに島で時間を過ごすよりもよかったかもしれない。

そもそも、なぜ「哲学ツーリズム」という奇妙な企画を思いついたかといえば、自分が哲学的思考と周囲の環境の関係に興味があったからであり、「ひとはどのようなときに(どのようなところで)哲学するのか」ということを考えたかったからである。もしかすると様々な「余白」がその条件ではないか、いう仮説にこの旅で思い至った。自分が開催している哲学カフェも、その性質に関心のあるカフェなどのサードプレイスも、どちらも日常生活から切り離された「余白」を提供しているという点では共通している。

「余白」ができることで何が生まれるのか。逆説的になるが、ひとは基本的に「余白」には耐えられないのだと思う。耐えられないから、普段とは違うやり方をしてでも(空間的、あるいは時間的な)「余白」を埋めようとする。何かをつくってみたり、遊んでみたり、いろいろな方法があるだろう。もしくは普段考えないようなことを考えたり、一般に「対話」とよばれる状態が生まれるかもしれない。哲学ツーリズムでは船の待ち時間という「余白」に耐えきれずはじめたアクティビティが、結果的にはよい時間を生んでくれた。

冒頭の「空隙や真空を他者のためにとっておく」という話に戻ろう。「余白」に耐えられないのならば、他者が自由な仕方で埋めようとしている「余白」を、誰かが先に埋めてしまうということも起こるだろう。例えば哲学カフェにおいて、参加者が言葉を探しながら沈黙したり、言い澱んでいるときに、誰かが「こういうことでしょ?」と発言したり、自分の発言をしたり、という例を数多くみてきた。これらは他人の「余白」を奪う行為だと思う。ときに効率性や合理性の名の下に、誰かのものだったかもしれない「余白」を埋めてしまう行為の例は、日常生活においては、むしろいくらでも見つけられるかもしれない。

「空隙や真空を他者のためにとっておく」ということは、つまり「ひとの余白を奪うな」ということだ。この考えは、なるほどある種の倫理として成り立つかもしれないと感じた。 自分も知らないうちに誰かの「余白」を奪っていないか、気をつけよう。

※写真は沖島での風景。梅干しが作られていた。

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Lexicon 現代人類学

Lexicon 現代人類学

 

 (おわり)

びわ湖に浮かぶ沖島で「哲学ツーリズム」の練習をしてきた(後編)

沖島での「哲学ツーリズム」練習、前編はこちらから。

沖島を散策

沖島についたので島をぐるっと回ってみました。こんな様子。

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郵便局がありました。めっちゃ普通です。

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沖島には「ケンケン山」という山があります。低い山っぽいので登ってみることに。山道(というほど整備されていない)を登って行くとこんな看板が。哲学ツーリズム用?(笑)

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森の奥を進んで行きます。思ったより道が険しく、しかも人がいないので不安になってきました。あとアブが多い。やたら多い。

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しばらく進むと見晴らしのいい高台へ。ここで持参したおにぎりを食べました。

適当なところで下山しようと思ったのですが、一向に下山する道にたどり着きません。この辺から単純に疲れてきたので問いを考える余裕がなくなってきます(笑)

ゾウみたいに見えた木の根。

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結局30分以上かけてなんとか下山。というか近くの民家の畑に出ました。(写真は流石に撮れず)

疲れたので島にあるカフェ「いっぷくどう」でちょっと休憩。店主から島の見どころを聞きます。島を訪れる人はだいたい次の船が来るまで(2時間ぐらい)で観光して帰ってしまうようで、釣り人以外で長居する人は珍しそうでした。

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店を出て、カフェ店主に教えてもらった弁財天(厳島神社)に行ってみました。

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 この辺りでポツポツ雨が降ってきました。船の時間が迫ってきたこともあり、港に戻って島を後にしました。

「問い」を更新していく

こんな感じのルートで散策しながら、はじめに決めた「平和とはどのような状態か?」という問いについて自問自答していました。修行みたいです。メモした内容を振り返ります。

ー 平和とはどのような状態か?

ー 争いのない状態。

ー 争いがない状態は常に平和か?

ー 今日駅で乗り越し精算をした時に、行列ができていて間に合わないかもと焦り少しイライラした。このときは表面的には争いがないのにもかかわらず平和とは感じなかった。

ー ということは、争いがなくても常に平和であるとは言えないということか。

ー そうだと思う。

ー 先ほどは「イライラした」ために平和だと感じなかったということか。

ー そうではないかと思う。

ー 「平和である」ということには自分の心の状態が関係するか?

ー「実家に帰って平和だと感じた」という当初の例では関係すると思う。自分の心が穏やかでないと平和だと感じない。

ー 後半の一文は平和一般に関しても言えるか?

ー 言えると思う。平和は何かと何かの関係性であり、一方が自分である場合は、少なくとも穏やかであることが必要ではないか。

このようなことを考えながら、ケンケン山の山道を歩いていたところ、倒木がまるで鳥居のように見えました。自分のことを受け入れてくれているような気がするのと同時に、張り詰めた緊張も感じました。

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ここに来て、「緊張関係の中での平和もあるかもしれない」とふと思い直しました。同時に、今までは平和を(少なくとも一方は)穏やかなものとの関係として捉えていたことに気づきます。もう少し考えると、自分の中には「平和とはなんらかの静的な状態である」という隠れた前提(アサンプション)があったのではないかと思い至りました。

ここで自分が探究したい問いが「緊張関係や動的な状態の中での平和はありうるか?」へ変わってきました。例えば「冷戦状態が平和といえるか」みたいな大きな話にも繋がる問いですが、どちらかというと環境や他者と自分との関係を考えてみたいと思いました。

ここまで考えたところで残念ながら時間切れになりました。

ふりかえって

実際に哲学ツーリズムの練習をしてみて、旅先で見たものや感じたことが、自分の考えたい問いに(自問自答とはまた違った形で)ヒントを与えてくれることを実感しました。これらは偶然出会ったものであり、別の場所に行けばまた違うヒントを得られたのではないかと思います。そういう意味で、哲学ツーリズムでは出かけたその場所に応じた仕方で、自分の問いを更新していくことができると思います。

自分以外の他者からヒントを得る、という点は対話も同じだと思います。実際、今回自問自答しているよりも他人と対話している方が前提に気付きやすいという(当たり前のこと)を再認識しました。哲学ツーリズムは複数人でやった方が得られるものが多いと思います。

じゃあわざわざ旅に出なくても哲学対話してればいいんじゃないか、という意見もありそうですが、旅先の環境から受ける刺激は一つの場所で対話しているよりも多くのヒントを与えてくれると思います。旅先の環境自体が多くの気付きを与えてくれる「大いなる他者」になっていると考えれば、哲学ツーリズムのプロセス全体を一種の対話と捉えることもできるのではないでしょうか。

夏頃に本番?をやってみる予定ですので、このあたりはもう少し考えてみたいと思います。

(おわり)