はれ ときどき てつがく。

ちいさな「てつがくする」をさがして

「行けば考える」:菅原和孝 他「世界の手触り フィールド哲学入門」

 今回取り上げるのは「フィールド哲学」という言葉に惹かれて購入したこの本です。

世界の手触り―フィールド哲学入門

世界の手触り―フィールド哲学入門

 

「フィールド哲学」 は人類学者の菅原和孝氏が提唱した言葉で、おおざっぱに言えば「フィールドワークの経験から哲学する」ことだと思います。本書ではそれぞれの著者が、各々の分野での「フィールド哲学」の実践例を報告しており、それぞれ刺激的な内容になっています。特に手話サークルの分析からコミュニケーションについて考察した「創発されるコミュニケーション(第3章/佐野文哉)」は興味深かったのですが、感想を書き出すとキリがないため以下では「フィールド哲学」についてメタ的に考察されている第1章を取り上げてみたいと思います。

「なじみ」を切断する

第1章「フィールド哲学とは何か」はフィールドワークと哲学の接続について考察した章となっています。著者の佐藤和久氏は下記のようにフィールド哲学を(仮説的に)特徴づけます。

フィールド哲学とは何か。それは、自分自身をとらえて離さず、そして哲学的と呼びうるような長い射程をもった問題について、孤独な概念的思索のみによってではなく、いま自分自身が他者とともに生きている日々の経験のあり方を緻密に分析していくことを通じて、思考することである。

フィールド哲学を実際に行う上で重要だと思われる点は二つある。①あなたが問いたいその問いについて考えるのに最も適すると思われる場所を探し、そこに行くこと。②その場で活動している人たちのあいだに身体を置き、その場で起きていることにあなたの思考を徹底的に沿わせながら、自分自身が真の意味で納得できるまで思考すること。(p.27)

では、①でいうような「問いを考えるのに適する場所」というのはあるのでしょうか。佐藤氏は「一般に哲学することは、思考する場所と結びつけて語られることは少ない」としつつも、哲学的モードに入りやすい場所があると指摘します。それは「私が私であることを堂々と一時中断できるような場所」だといいます。それは、例えば仕事上の肩書き等の自分の役割を脱ぎ捨てられる「サードプレイス」であったり、「ただの肉として湯のなかに浮かぶとき(お風呂)」であったり、「路上や車中で、匿名の誰かとして、私的領域にひきこもるのではなく人々のあいだにいるとき」であったりします。これらは「私というアイデンティティーを堂々と宙吊りにし、自分であるということを一時停止することが正当化されている」場所ですが、このような場所においては「自分自身を構成する環境への〈なじみ〉から一時的に切り離される」と佐藤氏は述べます。

佐藤氏は「フィールド」に出ることがこのような「なじみ」を切断し、「おのれ自身の端緒が更新されていく経験」としての哲学的思考を起動させる、と言います。

ポイントは、異なる場所に移動することで、みずからのアイデンティティが宙吊りになり、「加工されていない経験」が立ち現れてくることにある。その経験に新たな手触りを感じることが、哲学的思考を半自動的に起動させるのだ。行けばわかる*1のではなく、行けば考えるのである。(p.38)

「なじみの切断」という考え方はカフェなどのサードプレイスや旅にも応用できる考え方で、個人的には非常に参考になりました。一方で、フィールドワークにおける「なじみの切断」が哲学的思考を起動させることには同意するものの、そのフィールドが「あなたの問いを考えるのに最も適した場所」であるのかどうかという点については、もう少し検討する必要があると思いました。

巻末に鷲田清一氏と菅原氏の対談が載っており、そこで鷲田氏は次のように疑問を投げかけています。

そこで菅原さんに聞きたいのは、哲学がフィールドワークするっていうときに、考えてもわからないものすごいやましさがあるんです。哲学ですからケアやお笑い、政治、教育の現場、ありとあらゆるところがあるじゃないですか。それをやり抜く人たちから本当に大事なことを聞き取るときに現場をどう選ぶか。僕らはケアからはじめて看護の世界に行ったけど、なぜここなのか、という正当化ができないんですよね。お笑いで吉本でもよかったんじゃないかと言われると、「うっ」と詰まる。なぜこの現場を選ぶかっていう問題をどうやって思想的に理屈づけられるのか。(p.242)

これに対して菅原氏は「フィールドを選ぶというのはやっぱり偶発的だとしかいいようがない」と応えています。偶発的に選ばれたのなら、そのフィールドが「問いを考えるのに最も適した場所」であるとはやはり言えないのでは、という疑問が残ります。そもそも「問いを考えるのに適した場所」とは何なのでしょうか。これらの問題に関して、自分としてはフィールド哲学の方に肩入れしたい気持ちがありますが、長くなりそうなので別の記事で書きたいと思います。

(おわり)

*1:この章の前段ではフィールドワークの「秘教化」(「行けばわかる」的な伝え方)と、その反動としての「秘境化」(フィールドワークのノウハウが教科書化されることで、逆にそれを学ばないとフィールドに出れなくなる、という風にフィールドワークを遠ざけてしまう)について触れられている。

人生の学び舎:スナック研究会「日本の夜の公共圏:スナック研究序説」

自分はスナックに行ったことがないのですが、「日本の夜の公共圏」というタイトルに惹かれて読んでみました。

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

 

本書は「本邦初のスナックについての本格的な学術研究の試み」だそうで、各分野の研究者がそれぞれ自身の研究分野の知見を踏まえ、スナックについて論じています。著者らが結成している「スナック研究会」は全国のスナックのデータベースを作成しており、スナックが多い町と治安(防犯)の関係といった統計的な調査研究も紹介されています。他にもスナックで行われるような「二次会」の系譜を考察したり、スナックにおける「社交」を考察したりする章があるなど多角的な内容で、興味深く読むことができました。ちなみに表題にした「人生の学び舎」は全日本スナック連盟会長の玉袋筋太郎氏の言葉らしいです。

さて、先月にちょうど東京の代官山書店で、この本に関連するトークイベントがあったので、そこにも参加してきました。(カフェフィロメンバーの三浦さんが進行役をされていました)

real.tsite.jp

著者の谷口氏の話の中で興味深かったのは、「東日本大震災後の被災地では、スナックの再開が早かった」という指摘でした。「頑張ろう日本」や「絆」というスローガンとは少しイメージが違いますが、現実的な「息抜き」としてスナックが必要とされたことが伺い知れます。

もう一つ興味深かったのは、若い経営者や起業家などが最近「スナック」によく言及しているということです。イベントの中で紹介があったのはShowroomの社長である前田裕二氏の著作でした。他にもホリエモンなどがスナックについて語っています。

人生の勝算 (NewsPicks Book)

人生の勝算 (NewsPicks Book)

 

ascii.jp

最近は若い人がクラウドファンディングでスナックを作ろうとする動きも多いようで、クラウドファンディングのサイトで調べると結構な数が出てきます。一方で全国のスナックの数はここ数年で急激に減っていっているようであり、これらの動きの間には何か断絶のようなものを感じてしまいます。

スナックは当初は若者のプレイスポットとして人気があったそうで、本書の第七章では苅部氏がマイケル・イグナティエフの指摘する「都会的帰属」(見知らぬ人々同士の親密さ)を日本のスナックの中にみています。上記の新しいスナックの動きは、この都会的帰属の場としてのスナックが念頭に置かれているように思えますが、顔見知りばかりが集まるような地方のスナックにおいては、人々のコミュニケーションの形式がかなり異なるのではないか、とも思いました。そのようなローカルのスナックが減っていくとして、クラウドファンディングでできるような「新しいスナック」がそれを代替できるのかどうか、気になるところです。

(おわり)

コミュニケーションが/その場で/哲学する:堀江剛「ソクラティク・ダイアローグ」

最近出た堀江剛氏の「ソクラティク・ダイアローグ」の感想です。

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

 

 「ソクラティク・ダイアローグ(Socratic Dialogue)」、略してSDはドイツの哲学者レオナルト・ネルゾンの行なっていた哲学教育の方法に由来する対話ワークショップで、その後グスタフ・ヘックマンらによって改良され、現在ではドイツや他の国々に広まっています。プラトンが描いたようなソクラテスの対話と区別する意味で、Neo-Socratic Dialogue(NSD)とよばれることもあります。

SDがどのようなワークショップかというと、集まった少人数の参加者たちが一つの「問い」を立て、自らの経験に基づいて対話をするなかで、全員が合意できる「答え」を導き出す、というものです。これだけ書くとあまり特別なことをしていないように思えますが、SDはこのプロセスを通常二日以上かけて「徹底的」に行うことが特徴であり、そのために結構厳密なルールやステップが設定されています。

SDのステップ

本書の冒頭では堀江氏がオックスフォードで体験したSDの様子が詳しく描かれています。「理解と誤解」をテーマにしたセッションは、下記のようなステップで進んだといいます。

①テーマ:理解と誤解(Understanding and Misunderstanding)

②例(example)を出し合う。また問い(question)を出し合う。

③出し合った例・問いを、それぞれ一つ選ぶ。

④選ばれた例を詳しく記述し、その中から核になる文(core statement)を見つける。

⑤問いの答え(answer)を出し合い、対話によってグループでまとめる。

(p.5)

特徴的なのは、参加者の実際の具体的体験を「例」として一つ取り上げ、問いを考える上での共通の土台とすることです。このときのSDでは参加者の「外国で人に道を尋ね、その言葉は理解できたのに、実際にはその道筋が予想外に複雑で目的の場所にたどり着けなかった」という体験が例として選ばれ、さらに具体的なシーンがヒアリングされて詳しく描写されていきます。

もう一つ、「statement」を重視するのもSDの特徴です。重要な参加者の発言は文章として全て定式化され、板書されていきます。「キーワード」だけを書くのではなく、文章の形で必ず完結させ、また参加者にも自らの発言を文章にする作業が求められます。このような文章が会場に書き出されることで、グループはこれまでの対話の内容をいつでも読み、後続する対話の中で参照・言及することが可能になります。

上記のSDでは、問いに対する参加者の「答え」を列挙していき、それぞれの答えに共通する部分を吟味して一つの文章にまとめていく作業を行ったそうです。最終的には参加者が合意できる形で四つの文章がまとめられました。(答えが一つの簡潔な文章になるケースは少ないらしい。)最終的な答えは他の人からみれば当たり前の内容になることが多いようですが、この「当たり前の定式化」で得られた答えは「その場に集まった限りでの参加者が、その場での対話を通して織り成した、極めて固有な産物(p.70)」であると堀江氏は言います。

本書では他にも堀江氏が進行をしたSDが事例としていくつか紹介されていますが、その時の「statement」も都度記載されており、議論の流れをリアルに追うことができてわかりやすいと感じました。SDの歴史的な展開や「遺伝対話」などの応用例も紹介されており、SDの概要を知る上で有用な一冊だと思います。

「グループが考える」ということ

さて、オックスフォードでSDを経験した堀江氏は、当時次のように感じたそうです。

考えるのは誰なのか。人が考えるだけではない。グループ、あるいはグループの対話の中で生じる発言の連鎖そのものが、独自の「質」をもって展開する。この観点から、あらためて「考える」ということについて考え直す必要があるのではないか。(p.26)

このアイデアは第6章「対話と哲学」で具体的に展開されています。堀江氏は「哲学する」営みを最小限のものとして捉えるなら「言葉の問い直しと組み立て」に集約されると指摘し、それはほとんど対話と同じことだと指摘します。さらに、哲学には歴史の中で蓄積された専門的知識を駆使して、独りで沈思黙考するイメージがあり、「人が/持続的に/哲学する」ことが前提となっていますが、堀江氏はその前提すらも捨ててしまうことを提案しています。つまり、人ではなく「コミュニケーションが/その場で/哲学する」という風に「哲学すること」を捉え直すのです。個人の意向に関係なく、グループの対話の中で生じる「発言の連鎖」が、独自の質を持って(勝手に)「哲学してしまう」。このように考えることで、哲学を現場に向けて開くための手がかりが得られると堀江氏は述べ、「組織」としての現場が自らを反省する際に、非公式的なコミュニケーションとしての「対話=哲学」が挿入される可能性について論じています。

堀江氏も指摘していますが、「対話」においては「個人」同士が考えをやり取りし、それぞれの考えが変化していくというイメージが抱かれがちですが、個人ではなく対話している「グループ」を基準において対話という現象を捉えることには意味があると私も感じています。私は哲学カフェを説明するとき、「ともに考える」場であるということを毎回説明していますが、これも堀江氏の「コミュニケーションが哲学する」と(たぶん)近い感覚を念頭に置いています。

ところで、堀江氏は対話を「言葉による人・事柄の理解(p.203)」として定義しています。カント主義的な精神に基づき「哲学することを教える」ソクラテス的方法を生み出したネルゾンをはじめとして、SDの背景には「理性」と「言葉」への強い信頼があるように思えますが、堀江氏の対話観もSDの背景にある考えに近いようにみえます。

一方で、私は「グループが考える」とき、その場にいる人々の表情や態度、場の雰囲気など言葉以外の要素もそこに組み込みたい気持ちがあります。これを「対話」とよぶべきか、また別のものなのか、という話を以前の記事で少し書きましたが、この点はもう少し自分の中で整理が必要だと感じました。*1

(おわり)

*1:「ケア」を重視するハワイの「こどものための哲学(P4C)」など、日本には他の哲学実践の流れも入ってきており、これらの「対話」観はSD的な(ドイツ的な?)考えとは少し異なるように思えます。このあたり、日本の実践者の中では若干の混乱があるようにも感じています。

哲学カフェはなぜ「カフェ」なのかー「カフェ性」の探究へ④

前回の記事で、カフェという場のもつ「コード」について書いた。

前の記事にも以下のように書いた通り、カフェのコードと哲学カフェの「ルール」は共通している。このことについて最後に考えたい。

哲学カフェで説明される「大切にしていること」や「ルール」は、より安心できる場であったり、より良い議論や対話をするために設定されている。もう少しざっくりまとめると、よりよい「探究の場」をつくるために設定されていると言ってもよいだろう。ここで、これらの多くが哲学カフェ特有のルールではなく、「カフェのコード」と共有されているという点を確認しておきたい。すなわち、よりよい探究の場をつくるために「カフェのコード」が大切とされる、ということである。

「ほかにこのような場所がないから」

哲学カフェの参加者から聞く感想として多いのが、「他にこんな場所がなかった」という声である。この表現について、『哲学カフェのつくりかた』のなかで本間氏が次のように書いている。

哲学カフェのつくりかた (シリーズ臨床哲学)

哲学カフェのつくりかた (シリーズ臨床哲学)

 

「ほかにこのような場所がないから」ー哲学カフェに参加するひとびとは、哲学カフェにくる理由の一つをこう表現する。一見、消極的にも映るこの言葉は、哲学の営み、あるいはその発端を、正確に言い表していると私は思う。哲学することは、ほかの場所では求めることのできない何かを、〈いまここ〉で追究するときに始められる。そこに哲学の不思議さがある。(『哲学カフェのつくりかた』p.230)

この意見に私は共感するものの、この感想を哲学の営みと結びつけることについては、もう少し留保したい気持ちがある。というのも、私には「ほかにこのような場所がない」というのは「カフェ的な場所がこれまでなかった」ということと同義に思われるからだ。というのも、そのような感想を抱く人からは、「普段の生活では話せないような話ができた」「色々な意見が聞けた」「自分の話を聞いてくれた」という感想も同時に頂くことが多いからである。これまで書いてきたように、これらは哲学カフェ特有の感想というよりは、「カフェのコード」の力によるものだといえる。*1

「カフェのコード」と「哲学のコード」

「ほかにこのような場所がない」というのは、哲学カフェのカフェ的な面を捉えた感想である。このように書くと、それとは別に「哲学」的な面があると考える人がいるだろう。しかし、このシリーズの冒頭で書いた通り、この二つを切り離して考えることはできない、と私は思う。カフェのコードのもとで、哲学カフェにおける哲学は成り立っているし、哲学カフェで哲学するためには、カフェのコードが必要とされるのである。*2「ほかにこのような場所がない」というのは、カフェ的な側面を言い表したものであると「同時に」哲学することの発端を言い表したものでもある、と私は考えたい。

はじめて哲学カフェに参加したとき、その「場」の不思議さに驚いた。テーマについて実感を持ったさまざまな声が飛び交い、その声が他の人の思考に影響を与えていく。自分が何か意見を言う度に、その場から返ってくる「何か」の反作用を強く感じた。理路整然と、直線的に議論が進むわけでは必ずしもないけれど、もっと力強い何かがその場で生まれていくように私には思えた。

そこで起こっていることを「対話」と表現する人もいるだろう。しかし、近代的に想定されるような自律的で強い「主体」が意見を交わすことで何らかの考えが生まれるというよりも、哲学カフェではもっと複雑に、様々なものが溶け合って一つの場が生まれ、そこから流れ出たものに参加者が影響を受けているように思えた。*3それ以来、私は哲学カフェのような「場」にずっと関心を持ち続けている。

この「場」について考えるために、「カフェのコード」について書いてきた。まだ十分に吟味できているとは思えないが、現在の自分の考えをとりあえず記すことにした。ここまで読んでいただいた方の中には「じゃあ、カフェ的な部分が哲学することにどう影響を与えているんだよ」と思われる方がいると思うが、この点はまだ吟味が必要なところである。カフェのコードは様々なしがらみから「解放」されるために機能しているといえるが、「哲学する」ために必要な規範(=コード)と、カフェのコードが共通しているとすれば、この「解放」が暫定的なキーワードになるのではと思う。今後は「哲学すること」における「解放」の意味について考えていきたいと思う。

(おわり)

*1:ちなみに、哲学カフェが日本に広まった2000年代は、サイエンスカフェなどの他の「カフェ」イベントが広まった時期とも重なっている。肩書きに関係なく誰でも自由に意見が言える「カフェ」的な場に哲学カフェではじめて出会ったという人も多いだろうが、他の「カフェ」イベントでもそれに近いことが起こると私は思う。

*2:メイドカフェではメイドのためにカフェはたぶん必要とされない。(カフェでなくともよい)

*3:このような理由から、個人的にはあまり「対話」という言葉を使わないようにしている。使うときはほとんど便宜的な場合だけ。

哲学カフェはなぜ「カフェ」なのかー「カフェ性」の探究へ③

過去二回に続いて、カフェの話。

hare-tetsu.hatenablog.com

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前回カフェの歴史をごくごく簡単に紹介したが、「カフェ」は歴史的にみても「市民の社交場」として、立場や肩書きに関係のない議論の場として機能していた。多くの哲学カフェは「カフェ的な雰囲気」を大事にするが、それはカフェの持つこのような歴史的経緯を踏まえてのことだろう。今回は「カフェ」という場のもつ機能について、もう少し考えていきたい。

カフェにある4つの自由

カフェという場の持つ機能について研究した書として、飯田美樹氏の「Caféから時代は創られる」がある。(残念だが現在Amazonでは買えない)

新版 Caf´eから時代は創られる

新版 Caf´eから時代は創られる

 

 この書の中で飯田氏はパリにおけるカフェ文化について考察しており、カフェという場で得られる自由を、次の4点に分けて論じている。以下に要約しよう。

・居続けられる自由

カフェにおいて、飲み物を頼むというのはその場に入るためのルールであって、客は飲み物を飲むことだけを目的としてくるとは限らない。カフェという場は他の公的な空間と違い、合目的性が追求されない不思議な空間である。一杯の飲み物代さえ払えば、好きなだけ本を読んでもいいし、友人と語ってもいいし、物思いにふけってもよい。

また、一杯の飲み物代を払うことで、カフェに通う人は「お客」として身分を保障される。劇場やレストランに通うのにはお金もかかるし、ドレスコードや振る舞い方も要求されるが、カフェにおいては社会的身分がなくても、一人の客としての立場を得ることができる。そして、カフェという場にいる各人は「客」という立場で同等の権利を持ち、平等に居続けることができるのである。

・思想の自由

特定の身分に限定されずに自由な議論が生まれていった場として、ヨーロッパではカフェとサロンがよく取り上げられる。ただ、当時のサロンは主人(典型的には女主人)が私的に人を呼び開く場(多くは無償)であったのに対し、カフェはあくまで店であり、商売としての場であった。

サロンもカフェも参加者が平等であるという点においてはほとんど変わらないものの、当時のサロンの議論においてはどうしても話題に主人の意向が反映され、参加者も主人に気を遣うため、自由な議論が妨げられてしまったという。同書ではサロンに出席した後に、公園などで心おきなく哲学的な議論をしていた参加者たちの例が取り上げられている。

一方、カフェの主人と客の間には(すでにお金を払っているので)そのように気を遣う関係はない。またカフェの主人は商売のために客にとって居心地の良い空間をつくろうとするため、話題を制限したりはしない。そのためカフェにおいては、参加者がより自由に議論することができた。

・時間的束縛からの自由

ヨーロッパのカフェの多くは朝早くから夜遅くまで営業しており、時間を気にせずいつでも行くことができた。夜しか営業していないバーとは違い、カフェは昼間に居るべき場所を探している者たちの溜まり場になる。カフェに行けば知り合いと会う可能性もあり、また偶然の出会いもあるかもしれない。少なくとも主人やギャルソンとは会話できる。そのため、カフェは誰かと話したいときや、気分が落ち込んだとき、暇なときなどいつでも気軽に行き、誰かと少しでも話すことが可能であった。

・振る舞いの自由

上述したように、カフェという場には一杯の飲み物を頼むというルールしかなく、あとはどのように振舞おうが基本的には客の自由である。カフェにはレストランやお茶会とは違い、場に振舞うべきコードが(ほぼ)存在していない。そのため、人々は思い思いに自由に過ごすことができる。自分が話したくなければ誰とも話さなくてよく、逆に誰か話しかけてよさそうな人に声をかけることもできる。カフェにおいてはお客同士の完全な自主性による自由があることがわかる。もちろん全てのカフェがこのような場であったわけではないが、このように自由が保障されており、居心地の良いカフェは日常生活からの「避難所」になっていた。

上記にみてきたように、カフェという場には振舞うべき特定のコードはないものの、上記の4点の自由をもつ場としての特性がある。これらの特性(カフェ性)を逆に「カフェのコード」と名付けてみたい。

哲学カフェのルールと「カフェのコード」

ここで哲学カフェに話を戻すと、この「カフェのコード」は多くの哲学カフェが掲げる「大切にしていること」や「ルール」と共通している点があることがわかる。現在、哲学カフェの多くは時間が決まっているイベントになっており、残念ながら「時間的束縛からの自由」があるとは言えないものの、下記のような点は共通するのではないだろうか。

・参加者が平等である

・何を話してもよい(発言が誰かの意向で制限されない)

・無理に発言しなくてもよい

・日常生活から解放される

哲学カフェで説明される「大切にしていること」や「ルール」は、より安心できる場であったり、より良い議論や対話をするために設定されている。もう少しざっくりまとめると、よりよい「探究の場」をつくるために設定されていると言ってもよいだろう。ここで、これらの多くが哲学カフェ特有のルールではなく、「カフェのコード」と共有されているという点を確認しておきたい。すなわち、よりよい探究の場をつくるために「カフェのコード」が大切とされる、ということである。

上記のことが当たり前のことだと思われる方もいると思うが、このような視点を持つ意味を次回にもう少し説明したい。

次回記事

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哲学カフェはなぜ「カフェ」なのかー「カフェ性」の探究へ②

前回の記事で、哲学カフェにおいては「哲学」と「カフェ」が切り離しがたい形で結びついているのでは、という話を書いた。そして、哲学カフェの「カフェ」の部分について考えてみたい、と。

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前回にも書いたように、多くの哲学カフェ(カフェや喫茶店でない場所で開催されるものも含む)では「カフェ的な雰囲気」が重視される。これは、例えば「カフェのようにコーヒーを飲みながらリラックスした雰囲気で気軽に語り合いましょう」といった感じで説明される。そこでは「カフェ」は大学から離れた市民の生活の場として捉えられると同時に、立場や肩書きに関係のない気軽な議論の場としてもイメージされている。「カフェ」の名のついた多くの対話型イベントで共有されているように思えるこのイメージについて補足するために、この記事ではカフェの成り立ちの歴史的背景について簡単に紹介しておきたい。

スーフィーが広めた「イスラームのワイン」

まず、コーヒーの話。コーヒーの語源はアラビア語の「カフワ(Qahwa)」とされるが、この言葉はもともと「ワイン」も意味していたという。どうしてワインとコーヒーが一緒くたにされたのだろうか。「カフワ」という言葉は「何かへの欲望を払う」という意味を持っている。ワインというと現代ではむしろ食欲を増進させるようなイメージがあるが、かつてのアラビアではむしろ食事を避けるためにワインが飲まれていたという。しかし、イスラーム世界において飲酒はタブーである。そこでコーヒーが登場する。

コーヒーはイスラーム神秘主義者であるスーフィーが広めた。飲むと眠れなくなり、食欲もなくなるこの奇妙な飲み物は、現世を否定し、睡眠欲や食欲を遠ざけて神との合一に至ろうとするスーフィーたちにまず歓迎されたのだ。その後コーヒーはイスラーム世界に広まり、16世紀のイスタンブールオスマン・トルコ帝国の首都)では「コーヒーの家(カーヴェハーネ)」とよばれるカフェの原型ができ、それまでの共同浴場に変わる新種の社交場として人気を呼んだ。この評判がヨーロッパにも伝わることとなる。

「理性のリキュール」を提供するコーヒー・ハウス

17世紀にはイギリスに初めてのコーヒー・ハウスができる。それまでのイギリスにはお酒を飲んで話をする場所はあったものの、「しらふ」の人たちが集まり話をする場所はあまりなかったのだろう。二日酔いにも効くコーヒーは「理性のリキュール」「アンチ・アルコール」などの触れ込みで宣伝された。

もっとも、コーヒー・ハウスに人々が惹きつけられたのは、そこで「理性のリキュール」を提供していたからというわけではなく、そこに生まれつつあった新種の公共的空間の魅力によるところが大きいだろう。人々はコーヒー・ハウスで新聞や雑誌を読み、商談をしたり、政治談義や文芸談義に花を咲かせた。そこでは様々な身分の人々が集い、自由に議論や情報交換ができたのであり、意見の異なる人々の自由な言論を可能にする民主主義的な雰囲気があった。18世紀の半ば以降、イギリスのコーヒー・ハウスは様々な要因もあり急速に衰退していったが、その頃にはヨーロッパ各地にカフェが広まり、人々が自由に集まり議論する公共的空間として、市民革命にも一定の寄与をしたとされる。

※このあたりの話をもっと詳しく知りたい人には、例えば以下のような本を紹介したい。特に「コーヒーが廻り世界史が廻る」の詳細で多面的な歴史記述には圧倒される。

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

 
コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

 

日本の「カフェー」と「純喫茶」

このように「カフェ」は歴史的にみても「市民の社交場」として、立場や肩書きに関係のない議論の場として機能していたことがわかる。次回は「カフェ」という場の持つ性質について、「哲学」との関係も踏まえて考えてみたいと思う。

余談だが、日本のカフェ文化はどうだったのだろうか。第一次世界大戦前に登場した日本のカフェは当時はヨーロッパのカフェ文化を参考につくられたものであり、当初は文化人たちの集まる場所だった。しかし、その後は女給さんたちの接待を売りにする水商売的な「カフェー」と、いわゆる「純喫茶」に分かれていったという。そして戦後に数が増えた純喫茶は、差異化のために次第に自家焙煎などの工夫を行い、コーヒーそのものの味にこだわるようになったと言われている。(社交の場としての機能が第一で、コーヒーの味は二の次だった西欧のカフェと比べると、当時としてはこの動きは珍しいとされている。)

水商売的な路線や、コーヒーの味にこだわる職人的な路線に独自進化するあたり、なんとも日本的な気がする…ちなみに日本で喫茶店が再び「カフェ」とよばれるようになるのは、お洒落なお店が登場し始めた90年代以降である。

※このあたりの事情は下記の本に詳しい。

カフェと日本人 (講談社現代新書)

カフェと日本人 (講談社現代新書)

 
珈琲の世界史 (講談社現代新書)

珈琲の世界史 (講談社現代新書)

 

次回記事

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哲学カフェはなぜ「カフェ」なのかー「カフェ性」の探究へ①

突然の話で恐縮だが、「メイドカフェはメイドなのか?」と問われたらあなたはどう応えるだろうか。「いや、メイドカフェはメイドのいるカフェであって、メイドカフェ自体はメイドではない」と応えるのではないだろうか。これは当たり前の話で、多くの「カフェ」イベントに当てはまることだ。「猫カフェ」は「猫とふれあえるカフェ」であるし、「サイエンスカフェ」は「科学的なトピックについて議論するカフェ」という具合に。

しかし、「哲学カフェ」の場合は少し状況が異なるように思う。というのも「哲学カフェは哲学なのか?」という問いはそれなりに自然だと思うからだ。もちろん哲学カフェは、「哲学的な議論や対話ができるカフェ」や「哲学者がいる(哲学者になれる)カフェ」と説明ができるかもしれないし、あるいは「哲学カフェでのやりとりのどこが哲学なのか?」と別の形で問いを言い換えることもできるだろう。

とはいえ「哲学カフェは哲学なのか?」という問いが(少なくともメイドカフェの例より)自然に聞こえるのは、「哲学カフェでのやり取りそれ自体が哲学である」というような主張が背景にあるからではないかと私は考える。もう少しいうと、この問いはどちらかといえば「〇〇哲学は哲学なのか」といった、哲学のアイデンティティをめぐる問いに近いといえるのではないだろうか。

また、このように考えたとき、哲学カフェにおける「哲学」と「カフェ」の関係は、上にあげた「メイド」と「カフェ」の関係や、「サイエンス」と「カフェ」の関係よりも、もう少し分かち難く結びついている、と私は感じる。

ところで、なぜ哲学カフェは「カフェ」で行われるのだろうか。それは当然、マルク・ソーテがカフェ・デ・ファールで議論を始めたことがきっかけなのだろうが、その後もこのイベントの多くは変わらず「カフェ」で開かれている。「哲学カフェ」といいつつ、明らかにカフェとはいえない場所で開かれている例も数多くあるが、その場合も「カフェ的な雰囲気」を出そうと工夫しているところがほとんどだと思われる。ここには明らかに哲学カフェが「カフェ的」であることに価値が見出されている。それはなぜだろうか。

哲学とカフェは「なぜ」あるいは「何が」結びついているのだろうか。この問いを考えるにあたって、これまで哲学カフェのどこが「哲学的」なのかについてはそれなりに議論がされてきたと思うが、どこが「カフェ的」であるのか、そしてそれがどのように意味があるのか、ということについてはあまり議論がされてこなかったように思える。私は哲学カフェを開催するなかで、このいわば「カフェ性」の問題について関心を持つようになり、実践のなかでこの問いを探究してみたいと考えるようになった。

この記事では「カフェ性」の問題について、今のところの私の考えをまとめておきたい。私の勘が正しければ、この「カフェ性」の問題を考えることは哲学カフェにおける「哲学」の理解にもつながるのではないかと考えている。

ソクラテスのカフェ

ソクラテスのカフェ

 

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