はれ ときどき てつがく。

ちいさな「てつがくする」をさがして

哲学カフェはなぜ「カフェ」なのかー「カフェ性」の探究へ③

過去二回に続いて、カフェの話。

hare-tetsu.hatenablog.com

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前回カフェの歴史をごくごく簡単に紹介したが、「カフェ」は歴史的にみても「市民の社交場」として、立場や肩書きに関係のない議論の場として機能していた。多くの哲学カフェは「カフェ的な雰囲気」を大事にするが、それはカフェの持つこのような歴史的経緯を踏まえてのことだろう。今回は「カフェ」という場のもつ機能について、もう少し考えていきたい。

カフェにある4つの自由

カフェという場の持つ機能について研究した書として、飯田美樹氏の「Caféから時代は創られる」がある。(残念だが現在Amazonでは買えない)

新版 Caf´eから時代は創られる

新版 Caf´eから時代は創られる

 

 この書の中で飯田氏はパリにおけるカフェ文化について考察しており、カフェという場で得られる自由を、次の4点に分けて論じている。以下に要約しよう。

・居続けられる自由

カフェにおいて、飲み物を頼むというのはその場に入るためのルールであって、客は飲み物を飲むことだけを目的としてくるとは限らない。カフェという場は他の公的な空間と違い、合目的性が追求されない不思議な空間である。一杯の飲み物代さえ払えば、好きなだけ本を読んでもいいし、友人と語ってもいいし、物思いにふけってもよい。

また、一杯の飲み物代を払うことで、カフェに通う人は「お客」として身分を保障される。劇場やレストランに通うのにはお金もかかるし、ドレスコードや振る舞い方も要求されるが、カフェにおいては社会的身分がなくても、一人の客としての立場を得ることができる。そして、カフェという場にいる各人は「客」という立場で同等の権利を持ち、平等に居続けることができるのである。

・思想の自由

特定の身分に限定されずに自由な議論が生まれていった場として、ヨーロッパではカフェとサロンがよく取り上げられる。ただ、当時のサロンは主人(典型的には女主人)が私的に人を呼び開く場(多くは無償)であったのに対し、カフェはあくまで店であり、商売としての場であった。

サロンもカフェも参加者が平等であるという点においてはほとんど変わらないものの、当時のサロンの議論においてはどうしても話題に主人の意向が反映され、参加者も主人に気を遣うため、自由な議論が妨げられてしまったという。同書ではサロンに出席した後に、公園などで心おきなく哲学的な議論をしていた参加者たちの例が取り上げられている。

一方、カフェの主人と客の間には(すでにお金を払っているので)そのように気を遣う関係はない。またカフェの主人は商売のために客にとって居心地の良い空間をつくろうとするため、話題を制限したりはしない。そのためカフェにおいては、参加者がより自由に議論することができた。

・時間的束縛からの自由

ヨーロッパのカフェの多くは朝早くから夜遅くまで営業しており、時間を気にせずいつでも行くことができた。夜しか営業していないバーとは違い、カフェは昼間に居るべき場所を探している者たちの溜まり場になる。カフェに行けば知り合いと会う可能性もあり、また偶然の出会いもあるかもしれない。少なくとも主人やギャルソンとは会話できる。そのため、カフェは誰かと話したいときや、気分が落ち込んだとき、暇なときなどいつでも気軽に行き、誰かと少しでも話すことが可能であった。

・振る舞いの自由

上述したように、カフェという場には一杯の飲み物を頼むというルールしかなく、あとはどのように振舞おうが基本的には客の自由である。カフェにはレストランやお茶会とは違い、場に振舞うべきコードが(ほぼ)存在していない。そのため、人々は思い思いに自由に過ごすことができる。自分が話したくなければ誰とも話さなくてよく、逆に誰か話しかけてよさそうな人に声をかけることもできる。カフェにおいてはお客同士の完全な自主性による自由があることがわかる。もちろん全てのカフェがこのような場であったわけではないが、このように自由が保障されており、居心地の良いカフェは日常生活からの「避難所」になっていた。

上記にみてきたように、カフェという場には振舞うべき特定のコードはないものの、上記の4点の自由をもつ場としての特性がある。これらの特性(カフェ性)を逆に「カフェのコード」と名付けてみたい。

哲学カフェのルールと「カフェのコード」

ここで哲学カフェに話を戻すと、この「カフェのコード」は多くの哲学カフェが掲げる「大切にしていること」や「ルール」と共通している点があることがわかる。現在、哲学カフェの多くは時間が決まっているイベントになっており、残念ながら「時間的束縛からの自由」があるとは言えないものの、下記のような点は共通するのではないだろうか。

・参加者が平等である

・何を話してもよい(発言が誰かの意向で制限されない)

・無理に発言しなくてもよい

・日常生活から解放される

哲学カフェで説明される「大切にしていること」や「ルール」は、より安心できる場であったり、より良い議論や対話をするために設定されている。もう少しざっくりまとめると、よりよい「探究の場」をつくるために設定されていると言ってもよいだろう。ここで、これらの多くが哲学カフェ特有のルールではなく、「カフェのコード」と共有されているという点を確認しておきたい。すなわち、よりよい探究の場をつくるために「カフェのコード」が大切とされる、ということである。

上記のことが当たり前のことだと思われる方もいると思うが、このような視点を持つ意味を次回にもう少し説明したい。

(次回に続く)

哲学カフェはなぜ「カフェ」なのかー「カフェ性」の探究へ②

前回の記事で、哲学カフェにおいては「哲学」と「カフェ」が切り離しがたい形で結びついているのでは、という話を書いた。そして、哲学カフェの「カフェ」の部分について考えてみたい、と。

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前回にも書いたように、多くの哲学カフェ(カフェや喫茶店でない場所で開催されるものも含む)では「カフェ的な雰囲気」が重視される。これは、例えば「カフェのようにコーヒーを飲みながらリラックスした雰囲気で気軽に語り合いましょう」といった感じで説明される。そこでは「カフェ」は大学から離れた市民の生活の場として捉えられると同時に、立場や肩書きに関係のない気軽な議論の場としてもイメージされている。「カフェ」の名のついた多くの対話型イベントで共有されているように思えるこのイメージについて補足するために、この記事ではカフェの成り立ちの歴史的背景について簡単に紹介しておきたい。

スーフィーが広めた「イスラームのワイン」

まず、コーヒーの話。コーヒーの語源はアラビア語の「カフワ(Qahwa)」とされるが、この言葉はもともと「ワイン」も意味していたという。どうしてワインとコーヒーが一緒くたにされたのだろうか。「カフワ」という言葉は「何かへの欲望を払う」という意味を持っている。ワインというと現代ではむしろ食欲を増進させるようなイメージがあるが、かつてのアラビアではむしろ食事を避けるためにワインが飲まれていたという。しかし、イスラーム世界において飲酒はタブーである。そこでコーヒーが登場する。

コーヒーはイスラーム神秘主義者であるスーフィーが広めた。飲むと眠れなくなり、食欲もなくなるこの奇妙な飲み物は、現世を否定し、睡眠欲や食欲を遠ざけて神との合一に至ろうとするスーフィーたちにまず歓迎されたのだ。その後コーヒーはイスラーム世界に広まり、16世紀のイスタンブールオスマン・トルコ帝国の首都)では「コーヒーの家(カーヴェハーネ)」とよばれるカフェの原型ができ、それまでの共同浴場に変わる新種の社交場として人気を呼んだ。この評判がヨーロッパにも伝わることとなる。

「理性のリキュール」を提供するコーヒー・ハウス

17世紀にはイギリスに初めてのコーヒー・ハウスができる。それまでのイギリスにはお酒を飲んで話をする場所はあったものの、「しらふ」の人たちが集まり話をする場所はあまりなかったのだろう。二日酔いにも効くコーヒーは「理性のリキュール」「アンチ・アルコール」などの触れ込みで宣伝された。

もっとも、コーヒー・ハウスに人々が惹きつけられたのは、そこで「理性のリキュール」を提供していたからというわけではなく、そこに生まれつつあった新種の公共的空間の魅力によるところが大きいだろう。人々はコーヒー・ハウスで新聞や雑誌を読み、商談をしたり、政治談義や文芸談義に花を咲かせた。そこでは様々な身分の人々が集い、自由に議論や情報交換ができたのであり、意見の異なる人々の自由な言論を可能にする民主主義的な雰囲気があった。18世紀の半ば以降、イギリスのコーヒー・ハウスは様々な要因もあり急速に衰退していったが、その頃にはヨーロッパ各地にカフェが広まり、人々が自由に集まり議論する公共的空間として、市民革命にも一定の寄与をしたとされる。

※このあたりの話をもっと詳しく知りたい人には、例えば以下のような本を紹介したい。特に「コーヒーが廻り世界史が廻る」の詳細で多面的な歴史記述には圧倒される。

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

 
コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

 

日本の「カフェー」と「純喫茶」

このように「カフェ」は歴史的にみても「市民の社交場」として、立場や肩書きに関係のない議論の場として機能していたことがわかる。次回は「カフェ」という場の持つ性質について、「哲学」との関係も踏まえて考えてみたいと思う。

余談だが、日本のカフェ文化はどうだったのだろうか。第一次世界大戦前に登場した日本のカフェは当時はヨーロッパのカフェ文化を参考につくられたものであり、当初は文化人たちの集まる場所だった。しかし、その後は女給さんたちの接待を売りにする水商売的な「カフェー」と、いわゆる「純喫茶」に分かれていったという。そして戦後に数が増えた純喫茶は、差異化のために次第に自家焙煎などの工夫を行い、コーヒーそのものの味にこだわるようになったと言われている。(社交の場としての機能が第一で、コーヒーの味は二の次だった西欧のカフェと比べると、当時としてはこの動きは珍しいとされている。)

水商売的な路線や、コーヒーの味にこだわる職人的な路線に独自進化するあたり、なんとも日本的な気がする…ちなみに日本で喫茶店が再び「カフェ」とよばれるようになるのは、お洒落なお店が登場し始めた90年代以降である。

※このあたりの事情は下記の本に詳しい。

カフェと日本人 (講談社現代新書)

カフェと日本人 (講談社現代新書)

 
珈琲の世界史 (講談社現代新書)

珈琲の世界史 (講談社現代新書)

 

次回記事

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哲学カフェはなぜ「カフェ」なのかー「カフェ性」の探究へ①

突然の話で恐縮だが、「メイドカフェはメイドなのか?」と問われたらあなたはどう応えるだろうか。「いや、メイドカフェはメイドのいるカフェであって、メイドカフェ自体はメイドではない」と応えるのではないだろうか。これは当たり前の話で、多くの「カフェ」イベントに当てはまることだ。「猫カフェ」は「猫とふれあえるカフェ」であるし、「サイエンスカフェ」は「科学的なトピックについて議論するカフェ」という具合に。

しかし、「哲学カフェ」の場合は少し状況が異なるように思う。というのも「哲学カフェは哲学なのか?」という問いはそれなりに自然だと思うからだ。もちろん哲学カフェは、「哲学的な議論や対話ができるカフェ」や「哲学者がいる(哲学者になれる)カフェ」と説明ができるかもしれないし、あるいは「哲学カフェでのやりとりのどこが哲学なのか?」と別の形で問いを言い換えることもできるだろう。

とはいえ「哲学カフェは哲学なのか?」という問いが(少なくともメイドカフェの例より)自然に聞こえるのは、「哲学カフェでのやり取りそれ自体が哲学である」というような主張が背景にあるからではないかと私は考える。もう少しいうと、この問いはどちらかといえば「〇〇哲学は哲学なのか」といった、哲学のアイデンティティをめぐる問いに近いといえるのではないだろうか。

また、このように考えたとき、哲学カフェにおける「哲学」と「カフェ」の関係は、上にあげた「メイド」と「カフェ」の関係や、「サイエンス」と「カフェ」の関係よりも、もう少し分かち難く結びついている、と私は感じる。

ところで、なぜ哲学カフェは「カフェ」で行われるのだろうか。それは当然、マルク・ソーテがカフェ・デ・ファールで議論を始めたことがきっかけなのだろうが、その後もこのイベントの多くは変わらず「カフェ」で開かれている。「哲学カフェ」といいつつ、明らかにカフェとはいえない場所で開かれている例も数多くあるが、その場合も「カフェ的な雰囲気」を出そうと工夫しているところがほとんどだと思われる。ここには明らかに哲学カフェが「カフェ的」であることに価値が見出されている。それはなぜだろうか。

哲学とカフェは「なぜ」あるいは「何が」結びついているのだろうか。この問いを考えるにあたって、これまで哲学カフェのどこが「哲学的」なのかについてはそれなりに議論がされてきたと思うが、どこが「カフェ的」であるのか、そしてそれがどのように意味があるのか、ということについてはあまり議論がされてこなかったように思える。私は哲学カフェを開催するなかで、このいわば「カフェ性」の問題について関心を持つようになり、実践のなかでこの問いを探究してみたいと考えるようになった。

この記事では「カフェ性」の問題について、今のところの私の考えをまとめておきたい。私の勘が正しければ、この「カフェ性」の問題を考えることは哲学カフェにおける「哲学」の理解にもつながるのではないかと考えている。

ソクラテスのカフェ

ソクラテスのカフェ

 

次回記事

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「哲学ツーリズム」の可能性について

10/22に開催された哲学プラクティス連絡会で「旅と哲学:哲学ツーリズムの可能性について考える」というワークショップを開催しました。

「旅と哲学対話って相性いいんじゃね?」という安直な思いつきからはじまったこの企画ですが、WSを通じて様々な可能性が浮かび上がってきました。今回は当日の模様を報告します。ご参加頂いた皆様ありがとうございました。

※「哲学プラクティス連絡会」ってなに?という方はこちらから。

philosophicalpractice.jp

配った資料など

興味のある奇特な方に向けて、こちらにアップしておきます。事前の告知文はこんな感じでした。

旅と哲学とは相性がよい。多くの方がこの主張に同意するのではないかと思います。見知らぬ土地を旅し、刺激を受けた経験は誰もが、とは言わないまでも大抵の方がお持ちではないでしょうか。

一人で旅するにせよ、複数で旅するにせよ、旅先での他者との出会いや会話に刺激を受けることもあるのではないかと思います。それは哲学対話で得られる刺激とどこか近いように感じます。では、旅行と哲学対話を組み合わせることはできるのでしょうか。このワークショップではそのような組み合わせを哲学ツーリズム(あるいは、少し広く「探究的ツーリズム」)とよび、その可能性について考えてみたいと思います。

このワークショップは2部構成を予定しております。前半は旅と哲学・哲学対話との関係、及び哲学ツーリズムが持ちうる可能性(または問題点)について、広く議論を行いたいと思います。後半はどうすれば哲学ツーリズムが実際の企画として成立するのかを、具体的にアイデアを出しつつ、その実現に向け検討していきたいと思います。実際の企画レベルでの落とし込みについて関心をお持ちいただける方のご参加を歓迎します。

次に当日配布したレジュメの内容です。たいした内容は書いていません。 

・哲学ツーリズムとは

 ツーリズム(観光)と哲学対話(哲学プラクティス)を組み合わせたもの。

・具体的なアイデア

 街歩きをしたのちの哲学対話、旅先での哲学ウォーク、

 各地の哲学カフェ訪問、ゲストハウスなどの宿泊拠点との連携…などなど

・哲学対話と旅の類似点

 ・日常生活からの解放(非日常性)

 ・上下関係からの解放(対等性)

 ・どちらもそれ自体が目的になる

・ツーリズムにおける探究

 ツーリズムでの経験(見知らぬものとの出会い)は「探究」を誘引する。

 Cf.エリク・コーヘンによる観光経験の5つのモード

    (レクリエーション/気晴らし/経験/体験/実存)

・哲学ツーリズムとローカリティの問題

 「哲学は普遍的な問いを扱うのだから、どこで探究しても同じでは?」

 「探究といっても、ヨソモノの自己満足にすぎないのでは?」

⇨ローカル(個別的)なものとグローバル(普遍的)なものとの両立。

 哲学対話と場所の問題は、哲学ツーリズムにおいて明確化/先鋭化する。

なお、レジュメ内で紹介しているエリク・コーヘンの論文はこちらから読めます。観光はただ楽しむとか、気晴らしするだけでなく、巡礼とかと同じように深い気づきの機会にも場合によってはなるよね、という話。

ci.nii.ac.jp

ちなみに「哲学ツーリズム」という単語を思いついてから「ツーリズム」についても理解したいと思い始め、観光社会学の存在を知りました。この本は実例を交えた紹介(ガイドブック的な記述)で、入門書としては結構わかりやすかったです。

ガイドブック的! 観光社会学の歩き方

ガイドブック的! 観光社会学の歩き方

 

最後に書いた哲学対話と場所(ローカリティ)の問題については、別の記事で書きたいと思います。 

当日でたアイデア

ワークショップでは特に流れを決めずに自由に話し合ったので、理論的な観点からすぐ使えそうな超具体的なアイデアまで入り混じった多様な意見が出ました。なかなかカオスな感じでよかったです。以下では具体的なアイデアについて羅列しておきます。(WSの時間以外で頂いた意見も含みます)

イデア

・哲学ハイキング(山登りする)

・哲学セーリング(船の上で哲学対話する)

・ディ◯ニーランドのアトラクションの待ち時間に哲学対話する

・哲学キャバクラ(キャバクラで哲学対話する)

・普段哲学カフェにこない人のところへ押しかける。(車とかで)

・離れた哲学カフェ同士の交流を行う

・哲学ウォークをして、哲学的な風景のマップをつくってみる。

・風景の絵を描いてみる。例えば写実主義など、主義ごとに分けて描いてみる。

・ゲストハウスやシェアハウスでの哲学対話

・お寺や神社での哲学対話

・「ブラタモリ」風にまちを歩いて哲学対話

・有名哲学者と行く海外ツアー

・・・もはや旅と関係なくなっているのではという感じすらしますが、興味のある方は是非実践してみてください。

WSを終えて

今回のWSを通じて、「哲学ツーリズム」は具体的に企画として成立すると思いましたし、さらに哲学対話のある側面を考える上でも有用なアプローチになりうると感じました。また、参加者から出された意見はどちらかというと「遠くの地で見知らぬモノと出会う」よりことも「身近にある当たり前の風景を見直す」という観点が多かったことが印象的でした。その意味で「哲学カフェに参加すること自体が旅である」という意見がとても印象に残っています。哲学ツーリズムは案外遠くではなく、自分たちの足元で成り立つものなのかもしれません。

(おわり) 

「哲学カフェ」と「哲学対話」を使い分けてみる、という話

最近はイベントの種類によって「哲学カフェ」と「哲学対話」という言葉を使い分けるようにしています。これはどう見てもカフェっぽくない場所で「哲学カフェ」を名乗ることに抵抗がある、という素朴な考えからはじまっているのですが、最近は少し踏み込んで、探究の場がどのような性質を持っているのか、ということに関心を持つようになりました。

場を分類するための軸はいくつか設定できると思うのですが、例えば探究が行われる場所が「コミュニティ」としてどのような性質を持つのかという観点から分類すると、現在の多様化する哲学対話の状況を俯瞰する上で、わりと見通しがよくなるのではと考えています。その性質は3つあって、「Community Free」「Community Based」そして「Community Making」と仮に名付けたいと思います。

Community Free:特定のコミュニティの中で行われるのではなく、またコミュニティの形成を志向しない探究の場。都市で行われる哲学カフェのように、誰でもオープンに出入りできて、その場で初めて出会う人々と議論を楽しむような場所が該当する。

Community Based:「すでに出来上がっている」コミュニティの中で行われ、そのコミュニティの性質を変えていくような志向を持つ探究の場。学校で行われるP4Cが典型的に該当する。

Community Making:特定のコミュニティを前提としないものの、探究を通じて人間関係やコミュニティの形成を目指すような場。サークル的な活動が該当する。

これらの性質は「主催者がどのような場にしたいか」という意図だけで決まるのではなく、むしろ探究が行われる場が持つもともとの特性に影響される面が大きいと感じます。例えば、一期一会的な出会いの場で行われる探究は主催者の意図に関わらずCommunity Free的になっていくのではないかと思います。逆に主催者がイベントを開催する場所を選ぶときは、自分の意図と近い性質を持った場所を(ときには知らず知らずのうちに)選んでいるのではないでしょうか、

なお、上記の性質に応じて、探究の場で重視される態度も変わってくると私は考えてます。日本で主流となっている感のあるSafetyを重視する態度は、Community Basedな場で行われる探究の場合に最も必要とされると思いますが、その他の場所では違った態度が重視されてもよいのではと思います。(例えば相手を「信頼」して、しっかりと批判することなど)

冒頭の話に戻ると、自分が「哲学カフェ」や「哲学Bar」と名付けているのはCommunity Freeな場で行う場合であり、お互いの顔をすでに知っているような人たちと行う地域密着型の探究は「哲学対話」とよんでいます。自分の開催しているところでCommunity Makingな場と言えるものがあるかは微妙ですが。

こうやって使い分けた方が自分としてはしっくりくる、という話でした。

デヴィッド・ボーム「ダイアローグ」を読む(1)

デヴィッド・ボームの「ダイアローグ(On Dialogue)」をこの夏はじめて読みました。色々な人からお勧めされる対話論の名著ですが、なかなか読む機会がありませんでした。(サボっていた、ともいう)

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ

 

この本、分量はそれほどでもないのですが、正直難解です。 実践的な対話のスキルに関心のある方にとってはあまり得るものがないかもしれません。それでも多くの刺激を与えてくれる本なので、自分の整理のために各章をゆっくりと読んでいこうと思います。

第1章 コミュニケーションとは何か

第1章は「コミュニケーション」をテーマにした短い文章です。冒頭でボームは現代の国家間の対立や、階級・信念など異なったグループ間の対立、世代間の対立に触れ、「コミュニケーションの問題」への関心の高まりを指摘します。しかも、コミュニケーションの問題を解決しようと同じ試みをしているグループはたくさんあるのに、彼ら自身も違うグループの話に耳を傾けることができず、結果としてさらなる混乱を招くことが多いとボームは指摘します。

ボームはこれらの事実から「コミュニケーションについて考えたり語ったりする上での大雑把で無神経な方法が、現在の問題を解決するための知的な行動を見つけられない大きな要因である可能性はないだろうか?」と考え、「コミュニケーション」という言葉の意味について考えていきます。

「コミュニケーション」という言葉の元になったのは、ラテン語の「commun」と「何かをさせる、やらせる」という意味の「fie」と同様の接尾辞の「ie」。だから「コミュニケートする」という言葉の意味の一つは「何かを共通のものにする」となります。これはある人から別の人へ、できるだけ正確に情報や知識を告げるという意味になります。

しかし、ボームは「コミュニケーション」という言葉の意味は上記だけでは十分でないとして、対話を例に次のように述べます。

対話では、人が何かを言った場合、相手は最初の人間が期待したものと、正確に同じ意味では反応しないのが普通だ。(中略)だから、話しかけられた人が答えたとき、最初の話し手は、自分が言おうとしたことと、相手が理解したことの間に差があると気づく。この差を考慮すれば、最初の話し手は、自分の意見と相手の意見の両方に関連する、何か新しいものを見つけ出せるかもしれない。(中略)したがって対話では、話し手のどちらも、自分がすでに知っているアイデアや情報を共有しようとはしない。むしろ、二人の人間が何かを協力して作ると言ったほうがいいだろう。つまり、新たなものを一緒に創造するということだ。(p.38)

科学者も自然と似たような「対話」を行なっているとボームは言います。科学者が思い浮かべた考えと、自然界で観察されるものの類似性や相違を考慮すれば、新しい考えが生まれ、その考えもまた観察によって確かめられることになります。こうして科学者が思い浮かべたもののと、自然界で観察されるものとに共通した、新しい何かが絶えず生まれています。

このようなコミュニケーションが生まれるためには、話し手の双方が、真実と「一貫性があること(コヒーレンス)」に関心を持つことが大事だ、とボームは指摘します。それは古い意図や考えを捨てて、これまでとは異なったものに取り組む心の準備ができるようにするためです。反対に、自分の考えや観点を情報の項目のように伝えることを望むなら、失敗は免れないともボームは言います。というのも話を聞く方は、語り手の考えという、一種のフィルターにかけられたものを聞いているからであり、それは語り手が維持したい、守りたいと思う内容になっているからです。(これでは新しいものは生まれません。)

また、例えば誰かが尋ねられた質問を「ブロック(遮断)」するとき、その人は自分にとって大切かもしれない考え方に存在する矛盾との直面を無意識に避けているのかもしれません。しかしこのような「ブロック」の存在は自分では気づき辛いもので、他人の話にきちんと耳を傾けているつもりでも、知らないうちに自分の考えを防御しているということが起こり得ます。コミュニケーションを実際に「ブロック」しているものに各自が充分に注意を払う必要がある、とボームは言います。

「協働作業」としての対話?

以上が1章の大まかな内容です。 「対話」というと、AさんとBさんが話す中でお互いを理解し(相互理解)、それぞれの考えが変わっていくというようなイメージを持ちます。しかしボームのいうような(いわば)「協働作業」という観点から考えると、対話においては新しいものを一緒に創造する、ということが第一であり、それぞれの考えが変わるのはむしろ二次的な効果だと言えるのでは?と思いました。個人の考えが変わらなくても(むしろ変わらない方が?)共に新しいものは創造できるのかもしれません。この点については後の章も読んでゆっくり考えたいと思います。

(おわり)

食べログに載らない「何か」:マイク・モラスキー「日本の居酒屋文化」

今日取り上げるのは、こちらの本です。

日本の居酒屋文化 赤提灯の魅力を探る (光文社新書)

 「サードプレイス」という言葉があります。家(第一の場)でも職場(第二の場)でもない、その人にとって居心地のいい「第三の場」のことを指します。本書は日本のサードプレイスの代表(?)でもある居酒屋文化を取り上げた本です。

 著者のマイク・モラスキーさんは「サードプレイス」という言葉を世の中に広めるきっかけになったオルデンバーグの同名書(日本語版)の中でも書評を寄せています。

 さて、著者が取り上げるのは日本の居酒屋の中でも特に「赤提灯」とよばれる店です。敷居の高くない、昔ながらの呑み屋ですね。「赤提灯」のイメージがわかない人はこの写真↓を見るとわかりやすいと思います。

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著者はオルデンバーグの「サードプレイス」を参照し、第三の場の特徴として、例えば「ひとりで行ってもひとりでない感じがする」「消費者ではなく個人として扱われる」ということをあげています。そして著者が飲み歩いた数々の赤提灯の中から、このような特徴に当てはまるような店の紹介をしています。全国の店が紹介されており、この調査量(飲み歩き量)は圧巻です。読んでいると飲みに行きたくなります(笑)

面白かったのは立ち飲み屋や大衆酒場の話。これらの店では一人一人の座るスペースが少なくて、客が多くなると席を詰めたりする必要があります。なかには「おしぼり」を客同士で共有したりする店もあります。このような店では「私有」できる部分が少ないものの、逆に様々なもの(席、おしぼり…)を「共有」することで客同士が仲良くなれるような環境ができる、と著者は指摘します。自分の経験でも確かにそうなのかな、と思いました。

さて、著者は居酒屋選びの5つの要素として、「品」「値」「地の味わい」「場の味わい」「人」をあげていますが、本書で紹介されている多くは「穴場」的な店です。地元に密着したローカルな店ほど「第三の場」として機能していることが多い、ということなのだと思います。一方で、有名店になるとお店を「観光」的に訪れる人が増え、お店の雰囲気が壊れてしまう、ということも筆者は嘆いています。あらゆるお店の情報が「食べログ」やその他のネット媒体に捕捉されてしまう世の中で、「地元にしか知られていない」穴場は消失しつつある、とも。

本書で紹介されるお店はメニューや値段、住所についてはあまり触れられていません。メニューや値段、住所はネットを見ればすぐにわかるので、ネットではわからないお店の様子の紹介に重点が置かれています。これは「食べログ」時代に対する著者のささやかな抵抗なのだと思いました。

著者は自分で穴場の居酒屋を見つけるときにどのように探せばいいか、ということも書いています。以下の4か条ですので参考に引いておきます。

1.まず、我を知れ…自分の好み、どのよう場所に引かれるかを把握する

2.街に注目せよ…街と店の関係を知る。練習として知らない街の飲食街を歩くとき、次の角を曲がったらどんな店があるのか想像する。そしてなぜそう考えたか振り返るとよい。

3.表通りより裏通りへ…開発されていない裏通りの方が穴場が多い

4.外見を「パーツ別」に捉えよ…外観と入口、看板と提灯、のれん。店の前の自転車や鉢植え、漏れ聞こえてくる声など。

たまには自分の勘だけを頼りに「居酒屋探訪」してみてもいいかも? 

(おわり)