はれ ときどき てつがく。

ちいさな「てつがくする」をさがして

手放せ、死ね、甦れ!〜「死の練習」としての哲学?〜

哲学する、というのは結局どういうことなのだろうか。哲学カフェなどなまじ「哲学」の名のつく活動をしているばかりに、「哲学って何することなんですか?」という質問をこれまで幾度となく受けてきた。いまでは「自分が当たり前だと思っていたことを立ち止まって疑い、その上で確からしいことを積み上げていくこと」という風に半ばテンプレート的に答えてはいるものの、何回聞いてもこの質問にはドキッとするし、いつも満足に答えられている気がしない。
 
ここで「立ち止まって疑う」ことと「確からしいことを積み上げる」ことを並べているのは、両者が別の方向性を持っていると思うからだ。哲学対話のなかで自分が満足感を覚えたときを振り返ると、自分が知らず知らず持っていた前提に気づいて、それを手放してみることができた場合と、自分一人では到達的なかったようなところまで探究が進んでいった場合があるように思う。これらは互いに絡み合っているものの、「手放すこと」と「積み上げること」が哲学する際に起こっていることでないか、と僕は暫定的に考えている。たぶん、人によってこのどちらを重視するかは違っており、「積み上げること」を重視する人は過去の哲学者たちの議論の蓄積を利用することで、より深く探究を進めようとするかもしれない。僕はといえば哲学カフェをはじめてから、「手放す」ということに強く興味をもつようになった。

死んで、甦るということ

ところで、ずいぶん前の話になるが、今年の3月に「南区DIY研究室」の「ツクレ、死ね、甦れ」というシンポジウムに参加した。

DIYというと自分で家具を作ったり、家をセルフリノベーションしたりと半ば「おしゃれ」な趣味になった感があるが、このシンポジウムは様々な物事がその道の専門家によって御膳たてされる(もしくは独占される)世界で、自らモノをつくることの根本的な意義について考える、という趣旨のイベントであり、自分の活動を考える上でも大いに得るものがあった。シンポジウムのタイトルの元ネタは「動くな、死ね、甦れ!」という映画*1だが、モノを「つくる」プロセスにおいて、モノや周囲の環境と自分との関係が更新されていくことが「死」と「甦り」で表現されている(のだと思う)。

さて、「哲学は死の練習である」というプラトン(の描いたソクラテス)の有名な言葉がある。自分は長い間、この言葉の意味についてピンときておらず、「なにスピリチュアルなことを言ってんだこいつ」ぐらいにしか思っていなかった。しかし上記のシンポジウムの話を聞いてから、自分に深く染み付き、自分と一体化しているような前提に気づき、それらを「手放す」ということは、一種の「死」に近い体験なのではないかと思うようになった。そしてその地点から新たに思考を立ち上げるということは、死から甦り、生き直すこととパラレルではないか、と。DIYシンポジウムのタイトルをもじるのであれば、「手放せ、死ね、甦れ!」である。

このような考えはプラトンが意図していた「死の練習」とはいささか違うかもしれないが、ここからどのような風景が見えてくるのか、今後じっくりと考えてみたいと思う。*2

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 

(おわり)

*1:

*2:多くの哲学対話において重視される「ケア」の概念は、このような「魂への配慮」としての哲学とも密接に関連していると思うが、まだうまく言語化できていない。

ひとの「余白」を奪うな

 Lexicon 現代人類学を読みはじめたのだが、2章の「レヴィ=ストロース構造主義」の記述にさっそく目が止まった。筆者の出口氏は、レヴィ=ストロースは『神話論理』において「神話を語り伝えることで新世界先住民が培うモラルと同調すること」を目指していると指摘する。

彼らのモラルとは「人間のまえにまず生命を、生命のまえには世界を優先し、自己を愛する以前にまず他の存在に敬意を払う必要がある」という「正しい人間主義」である。(...)この教えは、世界をわれわれという存在で充満させ飽和させるのではなく、それを嫌悪し、充満しそうになると引き返そうとし、空隙や真空の余地を作る作法を説く。

「われわれ」による世界の飽和は破壊的である。なぜなら飽和は他者を受け入れる余地を認めず、かつてのナチズムのように他者を排除しようとするからである。一方引き返す作法によって、空隙や真空を他者のためにとっておくというのが、新世界先住民のモラルである。(p.16)

正直『神話論理』の内容はよく知らないのだが、最近「余白」について考えていた自分にとって、「空隙や真空を他者のためにとっておく」という考え方は共感できるものだった。

「余白」から生まれるもの

先日、滋賀県にある沖島で「哲学ツーリズム」を実施した。「問い」とともに旅に出て、自分の問いについて徹底的に考えよう、という企画だ。

沖島に行くには近江八幡の駅から少し離れた港に向かう必要がある。レンタカーを借りて向かったのだが、運悪く渋滞に捕まってしまい、目指していた船の出発時間に到着することができなかった。

次の船の時間までは、あと2時間もある。

普通のツアーだったら完全な失敗だろう。しかし参加者の皆さんは怒ることもなく、この空き時間をどうするか、一息ついてみんなで考えることができた。最終的には、港の近くで予定にはなかった別のアクティビティ(哲学ウォーク)を行うことになり、これが思いのほか多くの示唆を与えてくれた。案外、計画通りに島で時間を過ごすよりもよかったかもしれない。

そもそも、なぜ「哲学ツーリズム」という奇妙な企画を思いついたかといえば、自分が哲学的思考と周囲の環境の関係に興味があったからであり、「ひとはどのようなときに(どのようなところで)哲学するのか」ということを考えたかったからである。もしかすると様々な「余白」がその条件ではないか、いう仮説にこの旅で思い至った。自分が開催している哲学カフェも、その性質に関心のあるカフェなどのサードプレイスも、どちらも日常生活から切り離された「余白」を提供しているという点では共通している。

「余白」ができることで何が生まれるのか。逆説的になるが、ひとは基本的に「余白」には耐えられないのだと思う。耐えられないから、普段とは違うやり方をしてでも(空間的、あるいは時間的な)「余白」を埋めようとする。何かをつくってみたり、遊んでみたり、いろいろな方法があるだろう。もしくは普段考えないようなことを考えたり、一般に「対話」とよばれる状態が生まれるかもしれない。哲学ツーリズムでは船の待ち時間という「余白」に耐えきれずはじめたアクティビティが、結果的にはよい時間を生んでくれた。

冒頭の「空隙や真空を他者のためにとっておく」という話に戻ろう。「余白」に耐えられないのならば、他者が自由な仕方で埋めようとしている「余白」を、誰かが先に埋めてしまうということも起こるだろう。例えば哲学カフェにおいて、参加者が言葉を探しながら沈黙したり、言い澱んでいるときに、誰かが「こういうことでしょ?」と発言したり、自分の発言をしたり、という例を数多くみてきた。これらは他人の「余白」を奪う行為だと思う。ときに効率性や合理性の名の下に、誰かのものだったかもしれない「余白」を埋めてしまう行為の例は、日常生活においては、むしろいくらでも見つけられるかもしれない。

「空隙や真空を他者のためにとっておく」ということは、つまり「ひとの余白を奪うな」ということだ。この考えは、なるほどある種の倫理として成り立つかもしれないと感じた。 自分も知らないうちに誰かの「余白」を奪っていないか、気をつけよう。

※写真は沖島での風景。梅干しが作られていた。

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Lexicon 現代人類学

Lexicon 現代人類学

 

 (おわり)

びわ湖に浮かぶ沖島で「哲学ツーリズム」の練習をしてきた(後編)

沖島での「哲学ツーリズム」練習、前編はこちらから。

沖島を散策

沖島についたので島をぐるっと回ってみました。こんな様子。

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郵便局がありました。めっちゃ普通です。

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沖島には「ケンケン山」という山があります。低い山っぽいので登ってみることに。山道(というほど整備されていない)を登って行くとこんな看板が。哲学ツーリズム用?(笑)

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森の奥を進んで行きます。思ったより道が険しく、しかも人がいないので不安になってきました。あとアブが多い。やたら多い。

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しばらく進むと見晴らしのいい高台へ。ここで持参したおにぎりを食べました。

適当なところで下山しようと思ったのですが、一向に下山する道にたどり着きません。この辺から単純に疲れてきたので問いを考える余裕がなくなってきます(笑)

ゾウみたいに見えた木の根。

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結局30分以上かけてなんとか下山。というか近くの民家の畑に出ました。(写真は流石に撮れず)

疲れたので島にあるカフェ「いっぷくどう」でちょっと休憩。店主から島の見どころを聞きます。島を訪れる人はだいたい次の船が来るまで(2時間ぐらい)で観光して帰ってしまうようで、釣り人以外で長居する人は珍しそうでした。

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店を出て、カフェ店主に教えてもらった弁財天(厳島神社)に行ってみました。

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 この辺りでポツポツ雨が降ってきました。船の時間が迫ってきたこともあり、港に戻って島を後にしました。

「問い」を更新していく

こんな感じのルートで散策しながら、はじめに決めた「平和とはどのような状態か?」という問いについて自問自答していました。修行みたいです。メモした内容を振り返ります。

ー 平和とはどのような状態か?

ー 争いのない状態。

ー 争いがない状態は常に平和か?

ー 今日駅で乗り越し精算をした時に、行列ができていて間に合わないかもと焦り少しイライラした。このときは表面的には争いがないのにもかかわらず平和とは感じなかった。

ー ということは、争いがなくても常に平和であるとは言えないということか。

ー そうだと思う。

ー 先ほどは「イライラした」ために平和だと感じなかったということか。

ー そうではないかと思う。

ー 「平和である」ということには自分の心の状態が関係するか?

ー「実家に帰って平和だと感じた」という当初の例では関係すると思う。自分の心が穏やかでないと平和だと感じない。

ー 後半の一文は平和一般に関しても言えるか?

ー 言えると思う。平和は何かと何かの関係性であり、一方が自分である場合は、少なくとも穏やかであることが必要ではないか。

このようなことを考えながら、ケンケン山の山道を歩いていたところ、倒木がまるで鳥居のように見えました。自分のことを受け入れてくれているような気がするのと同時に、張り詰めた緊張も感じました。

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ここに来て、「緊張関係の中での平和もあるかもしれない」とふと思い直しました。同時に、今までは平和を(少なくとも一方は)穏やかなものとの関係として捉えていたことに気づきます。もう少し考えると、自分の中には「平和とはなんらかの静的な状態である」という隠れた前提(アサンプション)があったのではないかと思い至りました。

ここで自分が探究したい問いが「緊張関係や動的な状態の中での平和はありうるか?」へ変わってきました。例えば「冷戦状態が平和といえるか」みたいな大きな話にも繋がる問いですが、どちらかというと環境や他者と自分との関係を考えてみたいと思いました。

ここまで考えたところで残念ながら時間切れになりました。

ふりかえって

実際に哲学ツーリズムの練習をしてみて、旅先で見たものや感じたことが、自分の考えたい問いに(自問自答とはまた違った形で)ヒントを与えてくれることを実感しました。これらは偶然出会ったものであり、別の場所に行けばまた違うヒントを得られたのではないかと思います。そういう意味で、哲学ツーリズムでは出かけたその場所に応じた仕方で、自分の問いを更新していくことができると思います。

自分以外の他者からヒントを得る、という点は対話も同じだと思います。実際、今回自問自答しているよりも他人と対話している方が前提に気付きやすいという(当たり前のこと)を再認識しました。哲学ツーリズムは複数人でやった方が得られるものが多いと思います。

じゃあわざわざ旅に出なくても哲学対話してればいいんじゃないか、という意見もありそうですが、旅先の環境から受ける刺激は一つの場所で対話しているよりも多くのヒントを与えてくれると思います。旅先の環境自体が多くの気付きを与えてくれる「大いなる他者」になっていると考えれば、哲学ツーリズムのプロセス全体を一種の対話と捉えることもできるのではないでしょうか。

夏頃に本番?をやってみる予定ですので、このあたりはもう少し考えてみたいと思います。

(おわり)

びわ湖に浮かぶ沖島で「哲学ツーリズム」の練習をしてきた(前編)

 旅と哲学を組み合わせた「哲学ツーリズム」について、以前の記事で書きました。

この具体的なやり方について、しばらくぼんやりと検討を続けていたのですが、まずは試してみるのが一番早いと思い立ち、近場で一度やってみることにしました。

今回行き先として選んだのはびわ湖に浮かぶ島「沖島」です。なんとこの島、人が住んでいるんです。びわ湖の中なのに。しかも小学校や郵便局もあります。前々から一度行ってみたかったので、ちょうどいい機会になりました。

沖島に興味のある方は例えばこんな記事を読んでみるといいかも。素敵なところです。

www.ritorengo.com

「問い」と旅にでる

 行き先が決まったところで、「哲学ツーリズム」で何をするかということが肝心なのですが、提唱者(?)の私もまだよくまとまっていません。ただ、見知らぬ土地に出かけ、様々な人やモノと出会うことで刺激を受ける、という旅の性質は、もともと哲学と相性がいいと考えています。旅に出ることで、それまで自分が抱いていた固定観念や思い込みが揺さぶられ、立ち止まって自らの考えを見直す契機になる。これはメルロ=ポンティがいうような「おのれ自身の端緒が更新されていく経験」としての哲学と非常に近いのではないかと思います。

旅が本来持っているこのような性質を生かしつつ、自らのもつ前提にもっと気づきやすく、更新していきやすいようなプログラムにできないかと考えた結果、「問いを決めて旅に出る」というコンセプトに思い至りました。ざっくり以下のような感じになります。

▼コンセプト
「問いと旅に出る、問いを生き直す、問いを更新する」(仮)

▼大雑把にやること

事前にそれぞれが旅に持っていく「問い」を決める。
例えば「自由」という大きなテーマを決めておき、各自が個別の問いを考える。

(事前に哲学カフェなどの対話を行い、問いを出してもよい)

現地で色々なアクティビティ(哲学対話に限らない)をする中で問いを更新していき、最後に発表する。

哲学ツーリズムは自分の持ち込んだ問いについて徹底的に考える時間となる。日常を離れた場所で様々な刺激を受け、問いをさらに更新していく。

もちろん「哲学ツーリズム」には他にも様々なやり方がありうると思いますので、色々な実験をしてみても楽しいと思いますが、今回はこのコンセプトで一旦試してみたいと思います。 

いざ沖島

当日更新していたTwitter投稿で様子を振り返っていきたいと思います。

問いは実家に帰ったときに感じた「平和だな」という感覚から「平和とはどういう状態か」にしました。沖島もなんか平和そうな感じだったので…(すみません、結構適当です笑)

今回は一人旅なので基本は自問自答になります。あとでも触れますが、本当は複数人で対話する時間も欲しいところです。

まずは京都から電車で近江八幡へ向かいます。その途中のひとコマ。

「問い」を明確にして旅をすると、旅先でのちょっとした出来事が自分の問いを考えるヒントになっていることに気づきます。

近江八幡からバスで堀切港という港に行き、そこから船で沖島に向かいます。詳しい行き方に興味のある方は下記のページが参考になります。

montekite.com

今回乗った「もんて号」。結構キレイです。

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船に乗って10分ぐらいで沖島に着きます。

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なんていうか、あまりに普通に人が住んでて驚きました笑

後編につづく

hare-tetsu.hatenablog.com

「行けば考える」:菅原和孝 他「世界の手触り フィールド哲学入門」

 今回取り上げるのは「フィールド哲学」という言葉に惹かれて購入したこの本です。

世界の手触り―フィールド哲学入門

世界の手触り―フィールド哲学入門

 

「フィールド哲学」 は人類学者の菅原和孝氏が提唱した言葉で、おおざっぱに言えば「フィールドワークの経験から哲学する」ことだと思います。本書ではそれぞれの著者が、各々の分野での「フィールド哲学」の実践例を報告しており、それぞれ刺激的な内容になっています。特に手話サークルの分析からコミュニケーションについて考察した「創発されるコミュニケーション(第3章/佐野文哉)」は興味深かったのですが、感想を書き出すとキリがないため以下では「フィールド哲学」についてメタ的に考察されている第1章を取り上げてみたいと思います。

「なじみ」を切断する

第1章「フィールド哲学とは何か」はフィールドワークと哲学の接続について考察した章となっています。著者の佐藤和久氏は下記のようにフィールド哲学を(仮説的に)特徴づけます。

フィールド哲学とは何か。それは、自分自身をとらえて離さず、そして哲学的と呼びうるような長い射程をもった問題について、孤独な概念的思索のみによってではなく、いま自分自身が他者とともに生きている日々の経験のあり方を緻密に分析していくことを通じて、思考することである。

フィールド哲学を実際に行う上で重要だと思われる点は二つある。①あなたが問いたいその問いについて考えるのに最も適すると思われる場所を探し、そこに行くこと。②その場で活動している人たちのあいだに身体を置き、その場で起きていることにあなたの思考を徹底的に沿わせながら、自分自身が真の意味で納得できるまで思考すること。(p.27)

では、①でいうような「問いを考えるのに適する場所」というのはあるのでしょうか。佐藤氏は「一般に哲学することは、思考する場所と結びつけて語られることは少ない」としつつも、哲学的モードに入りやすい場所があると指摘します。それは「私が私であることを堂々と一時中断できるような場所」だといいます。それは、例えば仕事上の肩書き等の自分の役割を脱ぎ捨てられる「サードプレイス」であったり、「ただの肉として湯のなかに浮かぶとき(お風呂)」であったり、「路上や車中で、匿名の誰かとして、私的領域にひきこもるのではなく人々のあいだにいるとき」であったりします。これらは「私というアイデンティティーを堂々と宙吊りにし、自分であるということを一時停止することが正当化されている」場所ですが、このような場所においては「自分自身を構成する環境への〈なじみ〉から一時的に切り離される」と佐藤氏は述べます。

佐藤氏は「フィールド」に出ることがこのような「なじみ」を切断し、「おのれ自身の端緒が更新されていく経験」としての哲学的思考を起動させる、と言います。

ポイントは、異なる場所に移動することで、みずからのアイデンティティが宙吊りになり、「加工されていない経験」が立ち現れてくることにある。その経験に新たな手触りを感じることが、哲学的思考を半自動的に起動させるのだ。行けばわかる*1のではなく、行けば考えるのである。(p.38)

「なじみの切断」という考え方はカフェなどのサードプレイスや旅にも応用できる考え方で、個人的には非常に参考になりました。一方で、フィールドワークにおける「なじみの切断」が哲学的思考を起動させることには同意するものの、そのフィールドが「あなたの問いを考えるのに最も適した場所」であるのかどうかという点については、もう少し検討する必要があると思いました。

巻末に鷲田清一氏と菅原氏の対談が載っており、そこで鷲田氏は次のように疑問を投げかけています。

そこで菅原さんに聞きたいのは、哲学がフィールドワークするっていうときに、考えてもわからないものすごいやましさがあるんです。哲学ですからケアやお笑い、政治、教育の現場、ありとあらゆるところがあるじゃないですか。それをやり抜く人たちから本当に大事なことを聞き取るときに現場をどう選ぶか。僕らはケアからはじめて看護の世界に行ったけど、なぜここなのか、という正当化ができないんですよね。お笑いで吉本でもよかったんじゃないかと言われると、「うっ」と詰まる。なぜこの現場を選ぶかっていう問題をどうやって思想的に理屈づけられるのか。(p.242)

これに対して菅原氏は「フィールドを選ぶというのはやっぱり偶発的だとしかいいようがない」と応えています。偶発的に選ばれたのなら、そのフィールドが「問いを考えるのに最も適した場所」であるとはやはり言えないのでは、という疑問が残ります。そもそも「問いを考えるのに適した場所」とは何なのでしょうか。これらの問題に関して、自分としてはフィールド哲学の方に肩入れしたい気持ちがありますが、長くなりそうなので別の記事で書きたいと思います。

(おわり)

*1:この章の前段ではフィールドワークの「秘教化」(「行けばわかる」的な伝え方)と、その反動としての「秘境化」(フィールドワークのノウハウが教科書化されることで、逆にそれを学ばないとフィールドに出れなくなる、という風にフィールドワークを遠ざけてしまう)について触れられている。

人生の学び舎:スナック研究会「日本の夜の公共圏:スナック研究序説」

自分はスナックに行ったことがないのですが、「日本の夜の公共圏」というタイトルに惹かれて読んでみました。

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

 

本書は「本邦初のスナックについての本格的な学術研究の試み」だそうで、各分野の研究者がそれぞれ自身の研究分野の知見を踏まえ、スナックについて論じています。著者らが結成している「スナック研究会」は全国のスナックのデータベースを作成しており、スナックが多い町と治安(防犯)の関係といった統計的な調査研究も紹介されています。他にもスナックで行われるような「二次会」の系譜を考察したり、スナックにおける「社交」を考察したりする章があるなど多角的な内容で、興味深く読むことができました。ちなみに表題にした「人生の学び舎」は全日本スナック連盟会長の玉袋筋太郎氏の言葉らしいです。

さて、先月にちょうど東京の代官山書店で、この本に関連するトークイベントがあったので、そこにも参加してきました。(カフェフィロメンバーの三浦さんが進行役をされていました)

real.tsite.jp

著者の谷口氏の話の中で興味深かったのは、「東日本大震災後の被災地では、スナックの再開が早かった」という指摘でした。「頑張ろう日本」や「絆」というスローガンとは少しイメージが違いますが、現実的な「息抜き」としてスナックが必要とされたことが伺い知れます。

もう一つ興味深かったのは、若い経営者や起業家などが最近「スナック」によく言及しているということです。イベントの中で紹介があったのはShowroomの社長である前田裕二氏の著作でした。他にもホリエモンなどがスナックについて語っています。

人生の勝算 (NewsPicks Book)

人生の勝算 (NewsPicks Book)

 

ascii.jp

最近は若い人がクラウドファンディングでスナックを作ろうとする動きも多いようで、クラウドファンディングのサイトで調べると結構な数が出てきます。一方で全国のスナックの数はここ数年で急激に減っていっているようであり、これらの動きの間には何か断絶のようなものを感じてしまいます。

スナックは当初は若者のプレイスポットとして人気があったそうで、本書の第七章では苅部氏がマイケル・イグナティエフの指摘する「都会的帰属」(見知らぬ人々同士の親密さ)を日本のスナックの中にみています。上記の新しいスナックの動きは、この都会的帰属の場としてのスナックが念頭に置かれているように思えますが、顔見知りばかりが集まるような地方のスナックにおいては、人々のコミュニケーションの形式がかなり異なるのではないか、とも思いました。そのようなローカルのスナックが減っていくとして、クラウドファンディングでできるような「新しいスナック」がそれを代替できるのかどうか、気になるところです。

(おわり)

コミュニケーションが/その場で/哲学する:堀江剛「ソクラティク・ダイアローグ」

最近出た堀江剛氏の「ソクラティク・ダイアローグ」の感想です。

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

 

 「ソクラティク・ダイアローグ(Socratic Dialogue)」、略してSDはドイツの哲学者レオナルト・ネルゾンの行なっていた哲学教育の方法に由来する対話ワークショップで、その後グスタフ・ヘックマンらによって改良され、現在ではドイツや他の国々に広まっています。プラトンが描いたようなソクラテスの対話と区別する意味で、Neo-Socratic Dialogue(NSD)とよばれることもあります。

SDがどのようなワークショップかというと、集まった少人数の参加者たちが一つの「問い」を立て、自らの経験に基づいて対話をするなかで、全員が合意できる「答え」を導き出す、というものです。これだけ書くとあまり特別なことをしていないように思えますが、SDはこのプロセスを通常二日以上かけて「徹底的」に行うことが特徴であり、そのために結構厳密なルールやステップが設定されています。

SDのステップ

本書の冒頭では堀江氏がオックスフォードで体験したSDの様子が詳しく描かれています。「理解と誤解」をテーマにしたセッションは、下記のようなステップで進んだといいます。

①テーマ:理解と誤解(Understanding and Misunderstanding)

②例(example)を出し合う。また問い(question)を出し合う。

③出し合った例・問いを、それぞれ一つ選ぶ。

④選ばれた例を詳しく記述し、その中から核になる文(core statement)を見つける。

⑤問いの答え(answer)を出し合い、対話によってグループでまとめる。

(p.5)

特徴的なのは、参加者の実際の具体的体験を「例」として一つ取り上げ、問いを考える上での共通の土台とすることです。このときのSDでは参加者の「外国で人に道を尋ね、その言葉は理解できたのに、実際にはその道筋が予想外に複雑で目的の場所にたどり着けなかった」という体験が例として選ばれ、さらに具体的なシーンがヒアリングされて詳しく描写されていきます。

もう一つ、「statement」を重視するのもSDの特徴です。重要な参加者の発言は文章として全て定式化され、板書されていきます。「キーワード」だけを書くのではなく、文章の形で必ず完結させ、また参加者にも自らの発言を文章にする作業が求められます。このような文章が会場に書き出されることで、グループはこれまでの対話の内容をいつでも読み、後続する対話の中で参照・言及することが可能になります。

上記のSDでは、問いに対する参加者の「答え」を列挙していき、それぞれの答えに共通する部分を吟味して一つの文章にまとめていく作業を行ったそうです。最終的には参加者が合意できる形で四つの文章がまとめられました。(答えが一つの簡潔な文章になるケースは少ないらしい。)最終的な答えは他の人からみれば当たり前の内容になることが多いようですが、この「当たり前の定式化」で得られた答えは「その場に集まった限りでの参加者が、その場での対話を通して織り成した、極めて固有な産物(p.70)」であると堀江氏は言います。

本書では他にも堀江氏が進行をしたSDが事例としていくつか紹介されていますが、その時の「statement」も都度記載されており、議論の流れをリアルに追うことができてわかりやすいと感じました。SDの歴史的な展開や「遺伝対話」などの応用例も紹介されており、SDの概要を知る上で有用な一冊だと思います。

「グループが考える」ということ

さて、オックスフォードでSDを経験した堀江氏は、当時次のように感じたそうです。

考えるのは誰なのか。人が考えるだけではない。グループ、あるいはグループの対話の中で生じる発言の連鎖そのものが、独自の「質」をもって展開する。この観点から、あらためて「考える」ということについて考え直す必要があるのではないか。(p.26)

このアイデアは第6章「対話と哲学」で具体的に展開されています。堀江氏は「哲学する」営みを最小限のものとして捉えるなら「言葉の問い直しと組み立て」に集約されると指摘し、それはほとんど対話と同じことだと指摘します。さらに、哲学には歴史の中で蓄積された専門的知識を駆使して、独りで沈思黙考するイメージがあり、「人が/持続的に/哲学する」ことが前提となっていますが、堀江氏はその前提すらも捨ててしまうことを提案しています。つまり、人ではなく「コミュニケーションが/その場で/哲学する」という風に「哲学すること」を捉え直すのです。個人の意向に関係なく、グループの対話の中で生じる「発言の連鎖」が、独自の質を持って(勝手に)「哲学してしまう」。このように考えることで、哲学を現場に向けて開くための手がかりが得られると堀江氏は述べ、「組織」としての現場が自らを反省する際に、非公式的なコミュニケーションとしての「対話=哲学」が挿入される可能性について論じています。

堀江氏も指摘していますが、「対話」においては「個人」同士が考えをやり取りし、それぞれの考えが変化していくというイメージが抱かれがちですが、個人ではなく対話している「グループ」を基準において対話という現象を捉えることには意味があると私も感じています。私は哲学カフェを説明するとき、「ともに考える」場であるということを毎回説明していますが、これも堀江氏の「コミュニケーションが哲学する」と(たぶん)近い感覚を念頭に置いています。

ところで、堀江氏は対話を「言葉による人・事柄の理解(p.203)」として定義しています。カント主義的な精神に基づき「哲学することを教える」ソクラテス的方法を生み出したネルゾンをはじめとして、SDの背景には「理性」と「言葉」への強い信頼があるように思えますが、堀江氏の対話観もSDの背景にある考えに近いようにみえます。

一方で、私は「グループが考える」とき、その場にいる人々の表情や態度、場の雰囲気など言葉以外の要素もそこに組み込みたい気持ちがあります。これを「対話」とよぶべきか、また別のものなのか、という話を以前の記事で少し書きましたが、この点はもう少し自分の中で整理が必要だと感じました。*1

(おわり)

*1:「ケア」を重視するハワイの「こどものための哲学(P4C)」など、日本には他の哲学実践の流れも入ってきており、これらの「対話」観はSD的な(ドイツ的な?)考えとは少し異なるように思えます。このあたり、日本の実践者の中では若干の混乱があるようにも感じています。