理想は現実と違うから意味がある
先日の記事で現実主義にまつわる丸山眞男のエッセイを紹介しました。
hare-tetsu.hatenablog.com
私たちは「現実的でない」「現実を見ていない」といった言葉である種の理想を批判しがちです。しかしそこで「現実」と私たちがよぶのは、多面的な事実の集まりから一部分を抜き出した、いわば恣意的に選ばれた事実である、と丸山は指摘していました。
むしろわれわれは、あるべき状態が事実として成立していないときにこそ、価値判断は意味をもっているとさえ、いうことができるのではないでしょうか。世界じゅうの人々が事実としてすべて善人であるならば、「善人であるべきだ」という価値判断は、たいして意味をもたないかもしれません。なぜなら、そのあるべき状態は事実としてすでに実現してしまっているからです。これに反して、世界じゅうに善人が少ないとすれば、「善人になるべきだ」という価値判断はもっと大きな意義をもつでしょう。なぜなら、善人でないわれわれは、善人になるべく努力するべきだということがそこから導かれるからです。(『哲学のすすめ』p.38)
リアリズムに潜む罠?:丸山眞男「『現実』主義の陥穽」
「その考えは現実的でない」
「理想と現実は違う」
このような言葉で私たちは「現実」を語りがちです。しかし、私はこの言葉を聞くたび、あるいは自分で使うたびに、何とも言えない違和感を覚えます。ここでいう「現実」とは何でしょうか?「現実的でない」ことがなぜネガティブな価値を帯びるのでしょうか。
丸山眞男「『現実』主義の陥穽」は、私のこの疑問を考えるヒントをくれました。このエッセイは1952年に出され、戦後の日本の各国との講和およびその後の再軍備をめぐる議論を踏まえて書かれていますが、その分析は現在でも通用するように思えます。
「現実」の3つの特徴
丸山は日本における「現実」という言葉の使い方について三つの特徴があるといいます。一つ目は現実の「所与性」です。「所与」という言葉は変えられない前提として私たちに「与えられたもの」というニュアンスがありますが、丸山の説明を読んだ方がわかりやすいと思います。
現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他方で日々作られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観へ転化します。「現実だから仕方ない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。(「丸山眞男セレクション」p.247、以下同書のページを参照)
二つ目の特徴は現実の一次元性です。 私たちが「現実」というときには、無数にある事実からある側面を(無意識に)選択している、というものです。
いうまでもなく社会的現実は極めて錯綜し矛盾したさまざまの動向によって立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的基盤に立て」とか言って𠮟咤する場合には大抵簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。(p.248)
では、「現実的」とされるのはどのような側面なのでしょうか。丸山は当時の講和と再軍備をめぐる日本の動向を踏まえて、それは時々の支配権力が選択する方向だといいます。これが三つ目の特徴です。
すなわち、その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。(p.250)
以上のような丸山の指摘を踏まえると、私たちが「現実的」と捉えるものは、既成事実だけをピックアップし、かつピックアップされた以外の多様な事実を無視しているものであり、しかも選択されるのは何らかの権力が選択している方向に沿った事実だということになります。現実に起こっていることを重視する「リアリズム」という言葉がありますが、上記のように考えると、この立場には何らかの落とし穴があるように思えてなりません。自分も色々な場面で「現実的」という言葉を使ってしまいますので、丸山の主張を心に留めておきたいと思います。
ここには書ききれませんが、このエッセイには他にも重要な指摘がたくさんありますので、興味のある方は読んでおいて損はないと思います。手に入りやすいものだと下記の本に収録されています。
(おわり)
構想はあたためても意味がない
こんにちは。ブログをはじめて5日目となりました。
このブログでやりたい3つのこと。
こんにちは。ブログをはじめて4日目になりました。
今日は、このブログでやりたいことを書きたいと思います。
1.読んだ本の紹介
読んだ本の感想を書いていきます。自分は本を読んでもメモをあまりとらない癖があるので、備忘録代わりにも使えることも期待しています。
2.哲学のパラドックスや思考実験の紹介
しばらくメインでやっていきたいと思うのはこちらです。はじめて知る人の入口になれるような記事を書ければいいなと思っています。とりあえず、人気のありそうな(?)「哲学的ゾンビ」あたりからはじめようかな…
3.哲学カフェなどの対話活動の感想、考察など
自分のやっている哲学カフェの感想や考察なども書いていこうと思います。すでに他の媒体があるので、このブログで哲学カフェの情報を大々的に流す気はありませんが、まとまった感想や考察を書く場として利用しようかと考えています。
※ちなみに、自分のやっている哲学カフェ:びわこ哲学カフェ便り
その他、雑感なども書いていきたいと思います。
(おわり)
科学は「なぜ」を説明しない?
昨日「哲学のすすめ」の紹介をしました。
この本の中で科学は「いかに」は問えるが「なぜ」は問えないという指摘がありました。これって、どういうことなんでしょう。
「いかに」と「なぜ」の違い
昔、誰かのコントで次のような場面を見た気がします。(詳細は忘れました…)
ある男が、スポーツの試合で決勝に出ていた。友人は別の場所で大事な面接があったのにもかかわらず、男を応援するため駆けつけた。友人を見つけた男は「どうして来たんだよ!」と問うたが、友人は「電車だよ!」と答えた…というものです。
この場合、男が聞きたかったのは友人が面接を抜けてまで来た「理由」であって、友人がどんな「手段」で来たかはどうでもいいのです。
このネタは日本語の「どうして」や「何で」の意味が上にあげたような両方の意味で使うことを利用していますが、「いかに」と「なぜ」の場合はもう少し意味は絞られていると思います。
「いかに」と「なぜ」は英語の「how」と「why」に対応していますので、前者が方法や何かが起こる様を、後者が理由を問うものだと大まかに区別することができます。
モノは「なぜ」落ちる?
さて、話を戻します。
科学は「いかに」を問うことはできるが「なぜ」は問えない。
これは「どうして」でしょうか。
ところで、モノを落とすと、当然地面へ落下していきます。そして改めて言われると不思議なことなのですが、高いところから落としたモノは地面に近づくにつれてだんだんとスピードを増していくという事実があります。
この事実は高校とかで習う重力加速度gを用いて記述(v=gt)されますが、この公式は落下する速度(v)が時間(t)に比例することを示しているのみです。
つまり、この公式は落下後の速度が「いかに」増すかを説明するだけで、「なぜ」地面に近づくにつれて速度を増すのかということについては一切説明していません。
「重力加速度があるから」というのが「モノが地面に近づくにつれ落下速度を増す」理由だと思われる方もいると思いますが、重力加速度とは「物体を落としたとき、その物体の速度が時間当たりにどれだけ速くなるかを示した量」のことですので、結局同じことを繰り返しているだけ(同語反復)です。
あるべき場所に戻りたい?
中世までは、例えば人が家に帰りたい思いから家が近づくにつれ足早になるのと同じように、本来「あるべき位置」へすみやかに戻ろうとするから、モノもだんだんと落下速度を増すのだというように「なぜ」そうなるのかの説明がされていました。(もちろん、この説明は今ではナンセンスです)
そして、この「なぜ」の説明の多くは自然の奥に何らかの神秘的な力や神の存在を前提とするものでした。近代までは科学と宗教、哲学は切り離せなかったのです。
近代の自然科学は、このような超自然的なものが存在するかどうかは一旦置いておいて、ただ事実をあるがままに記述しようとする態度から生まれたものです。
事実のみを対象とすることで実験が可能になり、自然科学はその後目覚ましい発展を遂げました。ただ、このような成り立ちからして、科学は本質的に「なぜ」という視点を持たないということは言えると思います。
個人的には、現在は理由や原因を問う時に「いかに」=メカニズムの説明で十分事足りることが多く、「なぜ」と問うことが少なくなってきているのではないか…と思ったりもします。「どうして」や「何で」と同様に、「なぜ」という言葉も「いかに」と同じような使われ方をする場合がありますので、この日本語のあいまいさも一因かもしれません。
※余談ですが、先ほど書いたこの「どうして」はどっちの意味か、考えてみるのも面白いかも?
科学は「いかに」を問うことはできるが「なぜ」は問えない。
これは「どうして」でしょうか。
(終わり)
哲学=人生観・世界観だ!:岩崎武雄「哲学のすすめ」
読んだ本をちびちび紹介していきます。今回は岩崎武雄「哲学のすすめ」です。
自分が高校生のとき、図書館で借りたはじめての哲学書です。最近改めて購入し読み返してみました。
哲学とは人生観・世界観だ
そもそも、哲学ってなに?
この難しい問いに、岩崎は明確にこう答えます。
(…)人間は、自由によって行為している以上、どうしても行為を選びその生き方を決定する根本的な考え方をもたないわけにはゆかないのですが、この考え方がいわゆる人生観ないしは世界観というものです。
そしてこの人生観・世界観がすなわち哲学に外なりません。(p.18)
人生観・世界観=哲学という、 なんとも歯切れの良い考えです。
岩崎はこの意味で人間は誰でも哲学を持っていると述べ、哲学は私たちの生活に密接に結びついているといいます。
例えば「幸せな人生を送りたい」と思うとき、人によって何を重要視するかは異なります。仕事で成功することを優先する人もいれば、家族と平穏に暮らすことを第一に考える人もいます。また、世間から離れて隠居したいと思う人もいるでしょう。
この考えの違いは、岩崎に従えば人生観=哲学の違いから来るものだと言えます。
「幸せとは何か?」といった抽象的なテーマに限らずとも、日常生活のあらゆる場面で行動を選択する私達はその都度自分の哲学に基づいて行動していると言えます。
※私は今お正月なのに初詣にもいかず家でこの記事を書いていますが、この選択も自分の何らかの人生観に基づいているのでしょう。
(例えば、「神頼みは効果がない」とか…笑)
哲学と科学はたがいに補いあう
岩崎は科学と哲学の関係についても論じています。
いまや、身の回りのあらゆることが科学で説明できるようになりました。
このような現代において哲学など不要なのでしょうか?
この疑問に対して岩崎はこう応えます。
哲学と科学は異なる役割を持ち、互いに補い合うものだと。
科学は「事実」がいかにあるかという知識を積み上げていく営みであり、そこから人生観や世界観などの「価値」の問題を導き出すことはできないと岩崎は言います。
個人的な行動の基準だけでなく社会問題や政治においても科学的な知識は必要ですが、その上でどのような行動を選択するかは、結局は哲学の問題にならざるをえません。
(…)われわれはどういう行為をするばあいにも、十分に科学的知識をもっていなければなりません。
しかし問題は、科学的知識はひとたび目的がきまったあとで、それではその目的を達成するにはどうすればよいかという手段についてのみ、その意義を有するということです。
科学的知識自身は目的をきめることができません。
目的は科学以外のものによってきめられる外はありません。
そしてこれが科学とは異なった、人生観であり、哲学であるのです。
(p.53)
岩崎はこのように事実についての探求としての科学と価値についての探求としての哲学を区別し、それぞれが補い合うことの重要性を説きます。
おわりに
この他にもこの本では歴史や政治等と哲学の関係や、学問としての哲学は成り立つかといった問題が取り上げられています。
もちろん、「哲学とは何か?」ということについて岩崎に対する異論は哲学研究者の中でも多いと思いますが、哲学のことを知りたい/これから学んでみたいという方にはこの本は結構参考になると思います。
私も高校生の当時かなり影響を受けました。
(おわり)
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後日書いた記事です。
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