理想は現実と違うから意味がある

先日の記事で現実主義にまつわる丸山眞男のエッセイを紹介しました。

hare-tetsu.hatenablog.com
私たちは「現実的でない」「現実を見ていない」といった言葉である種の理想を批判しがちです。しかしそこで「現実」と私たちがよぶのは、多面的な事実の集まりから一部分を抜き出した、いわば恣意的に選ばれた事実である、と丸山は指摘していました。

少し視点は変わりますが、そもそも理想を「非現実的」だとして批判することは妥当なのでしょうか。以前紹介した岩崎武雄「哲学のすすめ」の中にこんな文章があります。岩崎は「いかにあるべきか」という価値の問題は「いかにあるか」という事実の問題とは全く無関係だと指摘し、例えば「善人になるべきだ」という価値判断は事実として世界に善人が全く存在しなくとも成り立つと言います。岩崎はこう続けます。
むしろわれわれは、あるべき状態が事実として成立していないときにこそ、価値判断は意味をもっているとさえ、いうことができるのではないでしょうか。世界じゅうの人々が事実としてすべて善人であるならば、「善人であるべきだ」という価値判断は、たいして意味をもたないかもしれません。なぜなら、そのあるべき状態は事実としてすでに実現してしまっているからです。これに反して、世界じゅうに善人が少ないとすれば、「善人になるべきだ」という価値判断はもっと大きな意義をもつでしょう。なぜなら、善人でないわれわれは、善人になるべく努力するべきだということがそこから導かれるからです。(『哲学のすすめ』p.38)
理想というのは事実に対して、「こうあるべき」「こうなった方がよい」という価値判断に基づいて生まれるものです。事実と理想がもし一致していれば理想を主張する必要はないので、理想は現実と違うからこそ主張する意味があるといえます。
こう考えると、理想に対して「現実的でない」ということは、実はあまり意味を持たないことになります。そこで議論されるべきことは「こうあるべき」という理想自体が共有できるかどうかということと、共有できる場合はどのような手段で理想を実現するか、ということではないでしょうか。
(おわり)