京都の廃村でカレーの精霊になった話

昨年のことになりますが、「大見新村プロジェクト」が開催する「ニューまつり」に参加してきました。このプロジェクトは京都の廃村状態となった地で「新しい村」を作ろうとする試みです。

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村では「ニューまつり」というお祭りが年1回開かれており、以前から関心があったのですが今回ようやく参加することができました。感想をプロジェクトに寄稿しましたので、このブログにも転載しておきます。

映像も年末に公開されました。以下からご覧いただけます。

↓こちらが本編です。

京都の廃村でカレーの精霊になった話

不思議な村への到着

9月下旬、私は京都市左京区にある「大見」にいた。三千院で有名な大原のさらに先、滋賀との県境にその不思議な「村」はある。この村で開催される奇妙な「祭り」に参加することが今回の目的だ。

大見に向かう公共交通機関はなく、自家用車かバイクで行く必要がある。今回、幸運にも村の方にピックアップ用の車を手配いただけることになり、大原のバス停からさらに先、山中の細い道を進んでいった。市内はまだ半袖でも過ごせる陽気だったが、車中ではクーラーをつけず窓を全開にしていた。山中を進むにつれて明らかに気温が下がってくるのを感じた。20分ぐらい経っただろうか。車一台がやっと通れる道幅が急に開け、数件の民家が現れた。村へ到着したのだ。

車を降りると太鼓の音色が聞こえる。どうやら翌日の本祭に向けた準備が進んでいるらしい。程なくして、山道から村人たちが列をなして歩いてくるのが見えた。ある人はススキを身に纏い、続く人は上裸、また別の人は丸太を担いでいる。後から聞いたところによると、これは村にあるモノたちに感謝するための伝統的な装いらしい。

行列は村の奥にある広場まで続き、そこでは太鼓の音色に合わせて収穫を祝う踊りが繰り広げられていた。踊っている人たちと観客の境界は曖昧で、それぞれが入れ替わり立ち替わりに踊りに参加する。はじめはその様子を見ていた私も次第に引き込まれ、スコップ(これも村のモノだ)を叩いてリズムに加わることにした。踊りにはバイオリンや獅子舞(今回は特別参加らしい)も加わり、熱狂の中で終わった。

 夜の儀式と「精霊会議

祭りは翌日まで開催されるということで、私はその晩村に泊めていただくことになった。食事を終えた後、火を囲んでの踊りが行われる。太鼓の独特の音色の中で踊りが繰り広げられる。街灯がないため外は全くの暗闇で、炎だけが照らしている独特の空間だ。

踊りが佳境に差し掛かった頃、長い木の棒を持った村人たちが4人あらわれ、それぞれが手にした棒を炎の中に立てかけていく。4本の棒を組み合わせて自立させようと試みているようだ。しかしバランスが取れずなかなか上手くいかない。そこに5本目の棒を持った村人が現れ、5本の棒をかざすことで見事にバランスが取れた。

この「儀式」は豊穣の精霊を讃えるためのもので、5本の棒を立て精霊に祈ることで翌年の豊作を祈願するものだとされている。ここで特に重要なのが5本目の棒を持つ人であり、今年は女性が選ばれたという。5本目の棒は混沌に調和をもたらす象徴であり、村では物事の要となる人物のことが「5本目の棒」と例えられることがあるらしい。 

「儀式」の後、前祭のクライマックスといえる「精霊会議」が始まる。炎を囲む村人たちが精霊を呼びよせ、自身に精霊を憑依させるのだ。私にも精霊を呼び寄せる事ができると聞き、半信半疑で輪の中に加わらせていただいた。

炎を囲んで座り、精霊たちを呼び寄せる。しばらくすると隣に座っていた男性が謎の言葉で話し始めた。日本語ではなさそうだが、不意に彼が「ブルーシートの精霊」である事が理解できた。なぜ私は理解できたのだろうか?それを皮切りに私にも何か「自分ではないもの」が降りてきたような感覚を味わう。私の口からは自然に「カレー」という言葉が出ていた。それが人間の言葉だったかは今となってはわからない。

そこからの記憶はひどく朧げであるが、その場ではニワトリやカエルの精霊、人工石の精霊、美味しい物好きの精霊など、具体的な正体がわからないものも含めた精霊たちが思い思いの言葉を話し合っていたように思う。夜が開けると私は正気に戻っていたが、カレーの精霊が私の口を通して語った「本当の自分がどこにあるかわからない」という言葉だけはなぜか記憶に焼き付いていた。

本祭の様子

一夜明け、本祭は昨夜炎に捧げた5本の棒を川に再び立てるところから始まる。男たちが川に自立した棒にススキを捧げ、川の水で清める儀式を行う。これで炎の精霊と水の精霊の両方に祈りを捧げられたことになるという。

清められたススキは、村の奥にあるシコブチ神社に捧げられることになっている。この神社は古くから村を守る神社であり、村人たちはススキを担ぎ、太鼓を鳴らしながら神社の境内に向かう。境内に到着した一行は神社に祈りを捧げた後、締め括りとして川に清めたススキを再び流す。ススキが川に流され、下流にある村に届くことで来年の豊作と安寧を願うものだという。

こうして今年も大見の祭りは無事に幕を閉じた。モノや精霊、自然とともに生きる人間の原初のあり方を強く感じた貴重な経験だった。 

…以上は約40年前に廃村状態となった大見で新しい村を作ろうとするプロジェクトである「大見新村」プロジェクトで開催された「ニューまつり」の様子だ。かつて行われていた祭りの様子はすでに分からなくなってしまっているそうで、新しい村の祭りを一から作る、というのがそのコンセプトだ。

ニューまつりは今年で4回目になるそうだが、祭りの内容は毎回即興で決められているため、私がここまで書いてきたような由緒ある言い伝えや伝統は当然ながら無い。しかし、今回実際に祭りを体験してみて、あたかも「ずっと前からあった」ように感じた瞬間があったことが不思議だった。それは音楽と踊りのリズムであったり、炎の中で現れた小さな奇跡だったり、川での即興的な儀式のなかで立ち現れてくる、時間を超えた「何か」であった。

即興の中で偶然立ち現れる高揚、喜び、神秘。各地に残る伝統的な祭りについてもそのルーツは案外、決してコントロールできないこれらの瞬間を再現しようと繰り返された結果なのかもしれないと思った。この文章もその「再現」につながる試みといえるかもしれない。

(転載おわり)

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(おまけ)カレーの精霊になってみて

ニューまつりの夜に行われた「精霊会議」では「人間以外の存在同士の対話」がコンセプトになっていて、各々が好きな存在になりきって話し合いを進めました。私は直前まで何の精霊になろうか迷っていたのですが、結局自分が一番関心のあった「カレー」の精霊になってみることにしました。

初めのうちはカレーの精霊ってどんな口調なんだろう、そもそも日本語話すのかな…とかいろいろ邪念がよぎっていたのですが(笑)、他の精霊に「どこからきたのか」という質問をされたときに「インドだったような気もするし、違うような気もする。」とすんなり応えることができ、またその後に「本当の自分がどこにあるかわからない」という言葉が自然に出てきたのは自分でも驚きでした。その瞬間にカレーの精霊が一つの人格になったように感じ、また人間としての自分の存在とどこかリンクするような感覚がありました。

昨年はカレーZINEを作ってみたり、対話を開催してカレーについて考えましたが、「カレーになってみる」というこの経験も印象深いものとなりました。

そういえばカレーを愛する人の中には、カレーの写真を撮ることを「自撮り」と表現した人もいましたね。愛するということは「自他合一」によって起こると西田幾多郎はいいましたが、カレーを愛し、深く知りたいと思うのは「カレーと一体化する」感覚に近いかもしれません。

我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。 (『善の研究』より)

そんなカレーを愛する人たちに寄稿いただいた「カレーZINE」は好評発売中です(宣伝)

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 (おわり)