地域に根差すということ:「原発禍の町で問う」より

お送りいただいた『哲学対話と教育』、辻明典さんの「原発禍の町で問う」を読む。

哲学対話と教育 (シリーズ臨床哲学 第5巻)

思い描くことができるだろうか、放射能と共にある暮らしを。…(略)まずは目を瞑り、山川に映える花々の美しさと、放射能が共存する風景を、思い浮かべていただくことからしか、小論を始めることはできないであろう。

震災後には様々なことを根源から問い直すことができる〈風穴〉や〈裂け目〉が開いたはずだが、それが徐々に閉じ始めていると辻は述べる。本稿では震災後、学校が普段通りの生活を早期に取り戻したことに注目し、そこに生の意味づけを回避する機能があると指摘した苅谷剛彦の論が紹介されている。震災前と同じ時間割、制服、クラブ活動…学校が急いで取り戻したこれらのルーティンは「考えずにいられる日常」への復帰であり、そこでは「別の生への意味づけ」が覆い被される、と苅谷は指摘する。

震災という経験の個人的な位置付けが、社会的・制度的な意味づけによって覆い被されてしまう。オリンピックもその例であるし、「10年という節目」をめぐるイメージも危うさが含まれるように思える。南相馬での「てつがくカフェ」はそれらの「生の回収」に抗い、〈裂け目〉にとどまり続ける試みなのだと感じる。

辻は南相馬での「てつがくカフェ」は地域に根を張ることと、物事を根本から問い直すこととが同時に行われるという意味でまさにラディカル(radical)だという。

2018年にてつがくカフェ@南相馬を訪問した。和やかな雰囲気の中で参加者が語る言葉には、そこに織り込まれた生活の歴史があるように確かに感じた。コロナ禍でますます「場所性」が失われていくように感じる昨今、辻がいう意味での「ラディカルさ」と「根差すこと」の意味を改めて噛み締めている。