哲学に上から目線はないー野矢茂樹「哲学な日々」

自分が影響を受けた日本の哲学者をあげろと言われたら、私はまず野矢茂樹を選ぶと思います。彼の本はありきたりな感想ですがどれも面白く、おすすめです。

野矢といえば哲学の謎 (講談社現代新書)無限論の教室 (講談社現代新書)

が有名ですが、今回は最近出版されたこの本を紹介します。

哲学な日々 考えさせない時代に抗して

哲学な日々 考えさせない時代に抗して

 

 この本は短いエッセイを集めた形式となっているので、移動中でもさくさく読めます。エッセイのテーマは多岐にわたりますので全てを紹介することはできませんが、特に印象に残ったものを今回は紹介したいと思います。「歩みをこそ」というエッセイです。

哲学の歩みとは

人は、哲学に何を期待するのでしょう。哲学者の残した数々の名言を読んで、人生の糧にしたいと思う人もいるかもしれません。しかし、名言だけをもてはやすとしたら、「それは哲学ではなく、哲学の残りかすに過ぎない」と野矢は言います。

哲学の核心はその問題にある。いかに生きるべきか。どうすれば正しい知識を得られるのか。自我とは何か。私は自由なのか。自由とはどういう意味なのか。いまだ正解と呼べるものは見出されていない。誰もが答えの途上にある。抱え込んだ問いに揺さぶられつつ、次の一歩を探り当てようとしている。問いの緊張に射抜かれていない言葉は、哲学ではない。 

(中略)だから、高みから語られる余裕の言葉など、哲学に期待しないでほしい。哲学者たちは、いくらでも踏みまちがう可能性のある未踏の地を、一歩ずつ探りながら進もうとしている。その歩みをこそ、見届けてほしい。(「47.歩みをこそ」より)

私は、野矢のこの記述に強く共感します。哲学の問題を考えるというのは迷いながら一歩一歩を踏みしめることであり、時に道を踏み外したり、道を間違えて引き返したりすることでもあります。その人自身も通ったことのない道で、かつ地図もないのであれば、他の人に正しい道を教えることなどできるはずがありません。

別の言葉でいえば、哲学に「上から目線」はないということかもしれません。哲学者ができるのは、ただ迷う姿を見せるのみです。「そこに行ったら道を間違えるぞ」ということはできるかもしれませんが、彼は人一倍迷っているだけであって、別に偉いわけではありません。そもそも彼も正しい道を知らないのですから。

(おわり)