WS「哲学を因数分解する」レポート

8/24・25で東京にて開催された「哲学プラクティス連絡会」で、「哲学を因数分解する」というワークショップを行った。かなり遅くなってしまったが、当日のレポートを書きたいと思う。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

趣旨  

以下が事前の告知文。
●哲学を因数分解する
 
焼きそばパン、というものがある。焼きそばをパンに挟んだものである。「焼きそばパンが好き」という人は何が好きなのだろうか。一般的に「焼きそば」は麺と具(キャベツや玉ねぎ、人参など)、ソースやトッピングの青海苔などでできている。「パン」もまた、そのレシピを見れば小麦粉や水などでできていることがわかる。今挙げたような構成要素のどれか、例えばソースの味が好きな人もいるだろうが、「炭水化物」がとにかく好きで、「麺」と「パン」の二つの要素が入っていることが重要だ、という人もいるだろう。「焼きそば」も「パン」も好きではないが、なぜか「焼きそばパン」が好きな人もいるかもしれない。このようにある物事を構成する要素を分解していくことは数学の「因数分解」に近い。(多少の厳密さは脇に置いておこう)
 
いわゆる「哲学プラクティス」はますます広がりをみせているように思われる。「哲学」あるいは「哲学する」ということが、様々な形で社会に受け入れられつつある(ようにみえてしまう)。このとき、一体「何が」受け入れられているのだろうか。真理の探究?批判的思考力の訓練?セーフティな場の醸成?その全て?あるいは、もっと別のこと?
 
はたして、「哲学する」ということは一体どういうことなのだろう。哲学研究者であっても、この問いを聞いて遠い目をしたり、はぐらかしたりする人がいるかもしれない。この問い自体が哲学の大きな問題の一つだからだ。おそらく、「哲学する」ということは様々な要素を持つ複合的な行為の集合であり、人によってどの部分を「本質的」であると考えるかは異なる。そして、哲学プラクティスの広がりによって、「哲学する」という言葉の意味も徐々に変化しうるのではないだろうか。
 
このワークショップでは、「哲学する」ということを参加者それぞれの視点から「因数分解」することを試みる。関心のある方のご参加を期待している。

当日参加していない人から後で「何をするのかよく分からなかった」という意見をいただいた。まぁ確かにそうだと思う。ここで言いたかったことをもう少し説明するとこういうことだ。哲学カフェや哲学対話など、(広義の)「哲学プラクティス」が広がりを見せていることには、それに関わる人の多くが同意すると思う。しかし、人々が哲学カフェや哲学対話のどんなところに魅力や価値を感じているのかというと、ここには様々な議論がありうる。

今回のWSでは触れなかったが、一つの(そして恐らく有力な)意見として、そもそも「対話」がブームになっているのだ、という主張がある。つまり、哲学カフェや哲学対話といっても「哲学」はあまり関係なく、人々は「対話」をすることに魅力を感じているのだ、ということ。この意見はかなりの程度正しいと私は思っているが、しかし今回は哲学プラクティス連絡会での開催なので、この点はあえてスコープ外にし、「哲学」に焦点を当てることにした。

さて、仮に何らかの形で「哲学」が社会に広く受け入れられるようになっている(もしくはある種の「哲学」ブームが来ている)のだとすれば、そこでは「哲学」のどのような要素が受け入れられているのだろうか。

もちろん、この問題を考えるにあたっては「哲学とは何か」という大問題を避けて通れない。ただ、この問いは「何が哲学にとって本質的な要素なのか」とほぼ同値であるように思える。であれば、本質的あるいは重要であるかどうかは一旦脇に置いて「哲学にはこのような要素がある」ということをあげていくこと自体は割と建設的にできるのではないだろうか。そこで今回は「哲学(する)にはこんな要素があるよね」ということをまずは洗い出し、そこからそれぞれの要素の関係、および本質的な要素を考えてみることにした。

当日の内容

当日のWSでは、「哲学(する)」の要素を分解して黒板に書いてもらった。写真がこちら。

※書き出すのが大変だったので、すみませんが各自で拡大してご参照ください…

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説明時に皆さんのリアクションが薄かった(失礼)ので、どうなるかかなり不安だったが、皆さんが想像以上に数式のような形にまとめていただいて、俄然面白くなってきた。

各自が自分の因数分解を発表した後、簡単にディスカッションを行なった。概ね以下のようなトピックだったが、詳細は割愛する。

・「話す」や「聞く」の要素は一人で考える際にも当てはまるか

・科学的な探求や事実の検証とはどの要素が違うか(あるいは同じか)

 次に、皆さんの式の中から、書いている人の多い因数をピックアップし、それぞれの関係を整理することにした。

↓こんな感じの要素を抽出した

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あーだこーだ議論をした結果、「哲学する」ときには左から右のような順番で要素が流れていくのでは、という話になった。そしてまた左に戻って循環していくイメージ。「電気回路のようだ」という人もいた。

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ただ、上記の「回路」だけでは「哲学」にはまだ物足りないような気がする。これはあくまで思考の流れの一例であって、例えばちょっと浮いてしまっている「普遍的」という要素など、この回路に含まれない要素を考えないといけないよね…という話をしているうちに時間切れになった。

おまけ

ちなみに私が書いた式は、「てばなす」×「つみあげる」×「あいする」だった。

これまで自分は哲学カフェなどで「哲学する」ということを説明するときに、「てばなす」ことと「つみあげる」ことを中心に説明してきた。でもそれだけでは足りないのでは、と最近考えており、今回は「あいする」を入れた。科学的な探求や事実の検証と違い、哲学においては「探究を行うことで自分自身が変わる」という要素があると思うし、少なくとも今の自分はそれが大事だと思っている。

同じようなことを以前のブログにも書いた。

ただ、ここで重要なのは「自己の更新」であって、それは「てばなす」際にも起こるような気もしている。もう少しスマートな(?)式になるように引き続き考えたい。

あと、数年ぶりに焼きそばパンを当日食べたが、おいしかった。コンビニの進化すごい。

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(おわり)