哲学対話とマジョリティについて

いつからか、「自分には見えないものがたくさんある」と思うようになった。

例えば差別を受けてきた人や、様々な困難とともにある人から聞く体験が、表面上は理解できても、リアルに感じられないことがある。自分の何気ない発言が、知らずのうちに誰かを傷つけてしまうことがある。様々な話し合いの場に参加するなかで、自分には全く見落としてしまっていたり、存在すら感じられないものがある、ということに徐々に気づいてきた。

はじめはこれらの「見えなさ」の原因を社会に求め、その構造を探究しようとしていた。「当事者」の声を隠蔽するシステムが何かあるのだろう、それはどういうものだろう、と。しかしあるとき、この疑問は「自分にはなぜそれらが見えないのだろう?」という問いに変換しないと意味がない、とふと気づいた。そして出てきた答えはシンプルだった。

なんのことはない、それは自分がマジョリティだからである。

自分は日本人であり、男性であり、異性愛者であり、会社員として働いており…と、この日本社会におけるマジョリティ属性の多くを兼ね備えている。マイノリティが見ている風景が私には見えない。いや、おそらく正しくは「見なくてもいい、考えなくてもいい」という恵まれた立場にいたのだ。そして、知らない間に誰かの足を踏んでいたのだろう(おそらく今でもそうだ)。このことを意識するようになった後は、「(自分が)マジョリティであるとはどういうことか」について考えるようになった。

「哲学対話」とマジョリティについて

さて、マジョリティについて関心を持つなかで、自分が開催している哲学カフェにおける参加者(自分も含む)の振る舞いも気になるようになってきた。マジョリティが「哲学」という大義名分の下で、抑圧的な振る舞いをしていないだろうか。参加者の体験や思いを普遍化するような場面に、そもそも問題が潜んでいないだろうか。

以下では、「哲学対話」*1とマジョリティの関係性について、自分が今ぼんやりと考えていることを書こうと思う。なお先に断っておくが、この文章は誰か特定の実践者や参加者に向けられたものではなく、あくまで自戒として書いているものである。

「哲学」の名のもとに

例えば、哲学対話で「差別」が話題になった場合、次のような発言が出ることがある。(このとき、哲学カフェのテーマ自体は差別に直接関係ない場合も多い)

「〇〇が差別ならば、▲▲もまた差別ではないのか」

「差別をしていない人など、この世にはいない」

「そもそも、なぜ差別がいけないのだろうか」

「『差別』と『区別』を厳密に区別することなどできない」

 「この発言の何が問題なのか」と思う方もいるかもしれないが、例えばある人が自らが差別されてきた経験を(勇気を持って)語った後に、別の人が上記のような発言をしたら、あなたはどう感じるだろうか。そのとき「差別され、声を上げている人がこの場にいる」という現実は無視されているのではないだろうか。声を上げた人は「攻撃されている」と感じることもあるだろう。

私の経験した範囲では、このような発言はマジョリティが発することがほとんどだった。(残念なことに)哲学対話以外の話し合いの場やネット上の言説でもこのような発言は見られるが、「哲学」の名がつくことで現れやすくなっている側面があるようにも思える。そこには例えば以下のような考え方が根底にあるように見える。

①「哲学」なのだから問題を冷静に、客観的に考えるべきだと思っている

②「哲学」なのだから「当たり前」を積極的に疑うべきだ、と思っている

③「哲学」なのだから「普遍的」に考えるべきだ、と思っている

これらの考え方はどれも一般的な哲学のイメージに当てはまるように思えるが、一方で哲学対話の場における抑圧的な振る舞いに加担することがあるようにも思える。

①について、ある問題に対して当事者でない人は、その問題を「他人事として」扱うことが容易になるため、結果として「冷静」に「客観的」に考えやすいという構造があるように思える。当事者の意見を「感情的」「主観的」と批判するような声は哲学対話に限らず様々な場所で見かけるが、これは「問題を自分と切り離して考えられる」立場にいる人、つまり社会構造上のマジョリティ側から発せられる言葉であることも多い。哲学対話においても例えば「客観的」の名の下に、だれかの意見が軽視されている場面はないだろうか。

②については、先にあげたように例えば差別された経験を語る人に対して「そもそもなぜ差別がいけないのか?」と問う人がいる。その発言にはしばしば冷笑的に問題を相対化する態度が伴っており、発言者はそのような「斜に構えた」姿勢を哲学と結びつけているようにも思える。哲学対話の場において社会規範への問い(「なぜ人を殺してはいけないのか」など)をどのように扱うのか、という議論は比較的よくみられるが、上記のような「斜に構えた」姿勢を取れるのがどのような人か、そしてその姿勢が話し合いの場でどのような効果を生むのか、ということをもっと考えたいと私は思う。

③については、哲学対話では参加者が語った個別の体験を「みんなが考えることができる」ようにするために普遍的な問題として(特に進行役が)再提示することがあるだろう。しかし、そのときの「みんな」が実はマジョリティを指している、ということはないだろうか。普遍化することで見えなくなってしまうものはないだろうか。もし見えなくなってしまうことがあったり、置き去りにされる人がいるとするならば、普遍化は話し合いの場でどのように機能してしまうのだろうか。

哲学対話におけるマジョリティ的な振る舞いについて、特に「哲学」と名がつくことで起こりやすくなってしまうような問題についてぼんやりと書いてみた。これらの問題に対して、例えば「そのような態度は本当の哲学ではない」という風に参加者個人の問題に還元することも可能に思えるが、私としてはこれらの問題を「哲学する」ことに潜むマジョリティ性、または抑圧性や加害性の問題としてもっと考えてみたいと思っている。

マジョリティ教育と哲学対話

 一方で、マジョリティの自己理解に哲学対話が有用なのではないか、という思いも私の中にはある。マジョリティが自分の抑圧性を自覚するにはマイノリティ側からの指摘が必要になってくる場合がほとんどだが、これは結局のところマイノリティに負担を強いていることになると思う。マイノリティの力をできるだけ借りずに自己理解を深める方法を考えるとき、「普段は意識していなかった自分の前提」を見つめる実践である哲学対話が応用できないだろうか、ということを最近は考えている。

例えば男性特権を考えるような教育において、「生きやすいとはどういうことか?」を哲学対話で考えた後、その話し合いの内容も踏まえて男性グループで自分たちの特権について考えてみる、というような場を持つ。先に述べたように哲学対話において男性が「他人事のように」考えたとしても、その意見を今度は自分たちに向けることで自らの特権性について気づくきっかけになるのではないだろうか。

上に書いた例はただの妄想であり、おそらく考えなければならないハードルや危険性がたくさんあるが、哲学のマジョリティ性を逆手に取った実践が何かできないか、ということは今後も考えていきたい。

 

2021.4月追記

「哲学対話をマジョリティ教育に生かせるか」について引き続き考えていますが、現状は安易に結びつけない方がいい、という考えに至っています。

 

(おわり)

*1:哲学カフェなどの実践を指すため便宜的に「哲学対話」という名称を使うが、この文章においてはこの単語以外に「対話」という言葉の使用を避ける。