「哲学ツーリズム」の可能性について

10/22に開催された哲学プラクティス連絡会で「旅と哲学:哲学ツーリズムの可能性について考える」というワークショップを開催しました。

「旅と哲学対話って相性いいんじゃね?」という安直な思いつきからはじまったこの企画ですが、WSを通じて様々な可能性が浮かび上がってきました。今回は当日の模様を報告します。ご参加頂いた皆様ありがとうございました。

※「哲学プラクティス連絡会」ってなに?という方はこちらから。

philosophicalpractice.jp

配った資料など

興味のある奇特な方に向けて、こちらにアップしておきます。事前の告知文はこんな感じでした。

旅と哲学とは相性がよい。多くの方がこの主張に同意するのではないかと思います。見知らぬ土地を旅し、刺激を受けた経験は誰もが、とは言わないまでも大抵の方がお持ちではないでしょうか。

一人で旅するにせよ、複数で旅するにせよ、旅先での他者との出会いや会話に刺激を受けることもあるのではないかと思います。それは哲学対話で得られる刺激とどこか近いように感じます。では、旅行と哲学対話を組み合わせることはできるのでしょうか。このワークショップではそのような組み合わせを哲学ツーリズム(あるいは、少し広く「探究的ツーリズム」)とよび、その可能性について考えてみたいと思います。

このワークショップは2部構成を予定しております。前半は旅と哲学・哲学対話との関係、及び哲学ツーリズムが持ちうる可能性(または問題点)について、広く議論を行いたいと思います。後半はどうすれば哲学ツーリズムが実際の企画として成立するのかを、具体的にアイデアを出しつつ、その実現に向け検討していきたいと思います。実際の企画レベルでの落とし込みについて関心をお持ちいただける方のご参加を歓迎します。

次に当日配布したレジュメの内容です。たいした内容は書いていません。 

・哲学ツーリズムとは

 ツーリズム(観光)と哲学対話(哲学プラクティス)を組み合わせたもの。

・具体的なアイデア

 街歩きをしたのちの哲学対話、旅先での哲学ウォーク、

 各地の哲学カフェ訪問、ゲストハウスなどの宿泊拠点との連携…などなど

・哲学対話と旅の類似点

 ・日常生活からの解放(非日常性)

 ・上下関係からの解放(対等性)

 ・どちらもそれ自体が目的になる

・ツーリズムにおける探究

 ツーリズムでの経験(見知らぬものとの出会い)は「探究」を誘引する。

 Cf.エリク・コーヘンによる観光経験の5つのモード

    (レクリエーション/気晴らし/経験/体験/実存)

・哲学ツーリズムとローカリティの問題

 「哲学は普遍的な問いを扱うのだから、どこで探究しても同じでは?」

 「探究といっても、ヨソモノの自己満足にすぎないのでは?」

⇨ローカル(個別的)なものとグローバル(普遍的)なものとの両立。

 哲学対話と場所の問題は、哲学ツーリズムにおいて明確化/先鋭化する。

なお、レジュメ内で紹介しているエリク・コーヘンの論文はこちらから読めます。観光はただ楽しむとか、気晴らしするだけでなく、巡礼とかと同じように深い気づきの機会にも場合によってはなるよね、という話。

ci.nii.ac.jp

ちなみに「哲学ツーリズム」という単語を思いついてから「ツーリズム」についても理解したいと思い始め、観光社会学の存在を知りました。この本は実例を交えた紹介(ガイドブック的な記述)で、入門書としては結構わかりやすかったです。

ガイドブック的! 観光社会学の歩き方

ガイドブック的! 観光社会学の歩き方

 

最後に書いた哲学対話と場所(ローカリティ)の問題については、別の記事で書きたいと思います。 

当日でたアイデア

ワークショップでは特に流れを決めずに自由に話し合ったので、理論的な観点からすぐ使えそうな超具体的なアイデアまで入り混じった多様な意見が出ました。なかなかカオスな感じでよかったです。以下では具体的なアイデアについて羅列しておきます。(WSの時間以外で頂いた意見も含みます)

イデア

・哲学ハイキング(山登りする)

・哲学セーリング(船の上で哲学対話する)

・ディ◯ニーランドのアトラクションの待ち時間に哲学対話する

・哲学キャバクラ(キャバクラで哲学対話する)

・普段哲学カフェにこない人のところへ押しかける。(車とかで)

・離れた哲学カフェ同士の交流を行う

・哲学ウォークをして、哲学的な風景のマップをつくってみる。

・風景の絵を描いてみる。例えば写実主義など、主義ごとに分けて描いてみる。

・ゲストハウスやシェアハウスでの哲学対話

・お寺や神社での哲学対話

・「ブラタモリ」風にまちを歩いて哲学対話

・有名哲学者と行く海外ツアー

・・・もはや旅と関係なくなっているのではという感じすらしますが、興味のある方は是非実践してみてください。

WSを終えて

今回のWSを通じて、「哲学ツーリズム」は具体的に企画として成立すると思いましたし、さらに哲学対話のある側面を考える上でも有用なアプローチになりうると感じました。また、参加者から出された意見はどちらかというと「遠くの地で見知らぬモノと出会う」よりことも「身近にある当たり前の風景を見直す」という観点が多かったことが印象的でした。その意味で「哲学カフェに参加すること自体が旅である」という意見がとても印象に残っています。哲学ツーリズムは案外遠くではなく、自分たちの足元で成り立つものなのかもしれません。

(おわり) 

「哲学カフェ」と「哲学対話」を使い分けてみる、という話

最近はイベントの種類によって「哲学カフェ」と「哲学対話」という言葉を使い分けるようにしています。これはどう見てもカフェっぽくない場所で「哲学カフェ」を名乗ることに抵抗がある、という素朴な考えからはじまっているのですが、最近は少し踏み込んで、探究の場がどのような性質を持っているのか、ということに関心を持つようになりました。

場を分類するための軸はいくつか設定できると思うのですが、例えば探究が行われる場所が「コミュニティ」としてどのような性質を持つのかという観点から分類すると、現在の多様化する哲学対話の状況を俯瞰する上で、わりと見通しがよくなるのではと考えています。その性質は3つあって、「Community Free」「Community Based」そして「Community Making」と仮に名付けたいと思います。

Community Free:特定のコミュニティの中で行われるのではなく、またコミュニティの形成を志向しない探究の場。都市で行われる哲学カフェのように、誰でもオープンに出入りできて、その場で初めて出会う人々と議論を楽しむような場所が該当する。

Community Based:「すでに出来上がっている」コミュニティの中で行われ、そのコミュニティの性質を変えていくような志向を持つ探究の場。学校で行われるP4Cが典型的に該当する。

Community Making:特定のコミュニティを前提としないものの、探究を通じて人間関係やコミュニティの形成を目指すような場。サークル的な活動が該当する。

これらの性質は「主催者がどのような場にしたいか」という意図だけで決まるのではなく、むしろ探究が行われる場が持つもともとの特性に影響される面が大きいと感じます。例えば、一期一会的な出会いの場で行われる探究は主催者の意図に関わらずCommunity Free的になっていくのではないかと思います。逆に主催者がイベントを開催する場所を選ぶときは、自分の意図と近い性質を持った場所を(ときには知らず知らずのうちに)選んでいるのではないでしょうか、

なお、上記の性質に応じて、探究の場で重視される態度も変わってくると私は考えてます。日本で主流となっている感のあるSafetyを重視する態度は、Community Basedな場で行われる探究の場合に最も必要とされると思いますが、その他の場所では違った態度が重視されてもよいのではと思います。(例えば相手を「信頼」して、しっかりと批判することなど)

冒頭の話に戻ると、自分が「哲学カフェ」や「哲学Bar」と名付けているのはCommunity Freeな場で行う場合であり、お互いの顔をすでに知っているような人たちと行う地域密着型の探究は「哲学対話」とよんでいます。自分の開催しているところでCommunity Makingな場と言えるものがあるかは微妙ですが。

こうやって使い分けた方が自分としてはしっくりくる、という話でした。

食べログに載らない「何か」:マイク・モラスキー「日本の居酒屋文化」

今日取り上げるのは、こちらの本です。

日本の居酒屋文化 赤提灯の魅力を探る (光文社新書)

 「サードプレイス」という言葉があります。家(第一の場)でも職場(第二の場)でもない、その人にとって居心地のいい「第三の場」のことを指します。本書は日本のサードプレイスの代表(?)でもある居酒屋文化を取り上げた本です。

 著者のマイク・モラスキーさんは「サードプレイス」という言葉を世の中に広めるきっかけになったオルデンバーグの同名書(日本語版)の中でも書評を寄せています。

 さて、著者が取り上げるのは日本の居酒屋の中でも特に「赤提灯」とよばれる店です。敷居の高くない、昔ながらの呑み屋ですね。「赤提灯」のイメージがわかない人はこの写真↓を見るとわかりやすいと思います。

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著者はオルデンバーグの「サードプレイス」を参照し、第三の場の特徴として、例えば「ひとりで行ってもひとりでない感じがする」「消費者ではなく個人として扱われる」ということをあげています。そして著者が飲み歩いた数々の赤提灯の中から、このような特徴に当てはまるような店の紹介をしています。全国の店が紹介されており、この調査量(飲み歩き量)は圧巻です。読んでいると飲みに行きたくなります(笑)

面白かったのは立ち飲み屋や大衆酒場の話。これらの店では一人一人の座るスペースが少なくて、客が多くなると席を詰めたりする必要があります。なかには「おしぼり」を客同士で共有したりする店もあります。このような店では「私有」できる部分が少ないものの、逆に様々なもの(席、おしぼり…)を「共有」することで客同士が仲良くなれるような環境ができる、と著者は指摘します。自分の経験でも確かにそうなのかな、と思いました。

さて、著者は居酒屋選びの5つの要素として、「品」「値」「地の味わい」「場の味わい」「人」をあげていますが、本書で紹介されている多くは「穴場」的な店です。地元に密着したローカルな店ほど「第三の場」として機能していることが多い、ということなのだと思います。一方で、有名店になるとお店を「観光」的に訪れる人が増え、お店の雰囲気が壊れてしまう、ということも筆者は嘆いています。あらゆるお店の情報が「食べログ」やその他のネット媒体に捕捉されてしまう世の中で、「地元にしか知られていない」穴場は消失しつつある、とも。

本書で紹介されるお店はメニューや値段、住所についてはあまり触れられていません。メニューや値段、住所はネットを見ればすぐにわかるので、ネットではわからないお店の様子の紹介に重点が置かれています。これは「食べログ」時代に対する著者のささやかな抵抗なのだと思いました。

著者は自分で穴場の居酒屋を見つけるときにどのように探せばいいか、ということも書いています。以下の4か条ですので参考に引いておきます。

1.まず、我を知れ…自分の好み、どのよう場所に引かれるかを把握する

2.街に注目せよ…街と店の関係を知る。練習として知らない街の飲食街を歩くとき、次の角を曲がったらどんな店があるのか想像する。そしてなぜそう考えたか振り返るとよい。

3.表通りより裏通りへ…開発されていない裏通りの方が穴場が多い

4.外見を「パーツ別」に捉えよ…外観と入口、看板と提灯、のれん。店の前の自転車や鉢植え、漏れ聞こえてくる声など。

たまには自分の勘だけを頼りに「居酒屋探訪」してみてもいいかも? 

(おわり)

「問い」が生まれるとき

先日京都の妙満寺で開催された哲学カフェに参加してきました。「雪の庭」という庭が有名なお寺です。当日は非常によい天気で気持ちよかったです。

会場はこちら→顕本法華宗 総本山 妙満寺

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今回はお寺を30分ほど自由に回った後で、みんなで考える問いを決める、という流れでした。よい機会なので「問いはどうやって生まれるのだろう?」と自分を観察しながら雪の庭を眺めていました。

しばらく無心で眺めていましたが、問いを出そうと思ってもなかなか出てきません。やがて庭に若いお坊さんが入ってきて掃除をしはじめました。そこではじめて、「彼は庭に堂々と入っているのに、自分はこの庭に入ろうと思わなかったのはなぜか」という疑問がふっと湧いてきました。それまで自分は「自然と(人工的な)庭との調和」について思いを巡らせていたので、自分でも予想していなかった疑問が突然湧いたことになります。問いというのは自発的に出せるものではなく、ふと「湧いてくる」、あるいは自分が「捕えられる」ものなのだと改めて気づきました。

昨年あたりから「その場や土地でしか考えられないこと」(=ローカル性)に強く興味を持つようになりました。哲学対話のテーマは自由に決めることができますが、せっかくだから会場ならではの問いにしたいと思う方もいるのでは、と思います。しかし「この場所でしか考えられないこと」を探すのは結構難しいです。今回だったら例えば「宗教とは何か」「死後の世界はあるか」などの問いだったらお寺と関係しているのではないか、と言えそうです。しかし一方で、別のお寺でもそれらのテーマは考えられる、という点ではその場所で考える必然性はないとも言えます。

「哲学の問いは普遍的なものだから、この場所でしか考えられない問いを求めるのはナンセンスではないか」と思う方もいらっしゃると思います。しかし「普遍的だけれどもこの場所でしか考えられない」問いがあるのでは、と私は思います。「この場所でしか考えられない」というのが気に入らなければ、「この場所だからこそ活きる」問いと言い換えてもいいかもしれません。そのような問いは、その場に身を置くことでしか得られないように思います。そこでは問いを立てるスキルのようなものは役に立たず、問いが自分を捕えるまでじっと待つことが必要なのかもしれません。

もう一つ付け加えるなら、今回の哲学カフェでも、参加者の経験や意見を聞くと様々な問いが浮かび上がってきました。それまでは問いがなかなか出ずに困っていたにもかかわらず、です。これも「その場だからこそ考えられる」ということなのでは、と思います。これらの「ローカル性」(と言い換えてよいのかはまだわかりませんが)を大事にすることが街中で哲学する面白さでもあり、重要さでもあるのではないか、と最近考えています。

(おわり)

自分の哲学カフェのルール変遷をまとめてみた

久しぶりに哲学カフェのルールを見直そうと思い立ち、考え中。良い機会なのでこれまでの変遷(?)をまとめてみました。主に自分の備忘録用。改めて振り返ると結構変わっているような、変わっていないような…

2011〜(小金井哲学カフェとか)

 ■冒頭の説明

哲学カフェは、普段はあまり考えない話題について、じっくり考え、対話を深める場所です。特別な哲学の知識は必要ありません。

■哲学カフェのルール

・発言するかしないかは自由。

・途中参加・退出も自由。

・年齢、職業等は明かす必要はない。

・ひとの発言は最後まで聴く。

・信条を一方的に押しつけない。

・自分の言葉で話すよう心がける。

2012〜2014年ぐらいまではほとんど上と同じ説明だったような…?(記録がない)

2014〜(びわこ哲学カフェとか)

 ■冒頭の説明

哲学カフェは、カフェなどの人の集まる場で、テーマを決めてみんなでじっくりと考える場です。哲学カフェは「ともに考える場」です。哲学カフェは誰が正しいか決める場所ではありませんし、一つの結論を出そうとする場所でもありません。

◼︎ルール

・人の話は最後まで聞く。

・自分の言葉で話すことを心がける。

・「わかったふり」をしない。

・入退場自由。

◼︎アドバイス

・「つまづき」を大事にしよう。

・「仮説」を出してみよう。

・「人それぞれ」から一歩踏み込もう。

・「おなじ」と「ちがい」を楽しもう。

↑に加えて「しつこさを大事にしよう」とかも気まぐれで言ったりするようになる。

2015〜(カフェフィロでの活動とか)

 冒頭の説明はあまり変わっていないが、ルールとアドバイスを心構え的な形でまとめてシンプルにしてるみたいです。

・普段よりゆっくり考えよう

・みんなにわかるように話そう

・「話す」よりも「質問する」「聞く」

・「わかったフリ」をしない

↑に加えて「自分の意見は変わってもいい」ということをたまに言うようになる。

2017〜(更新中)

最近は暫定でこんな感じにしています(5月〜)

・普段よりゆっくり考えよう

・「話す」よりも「質問する」「聞く」

・頭の中にあることを「とりあえず」出してみよう

・「わからないこと」にこだわろう

 

最後は随時更新されるかもしれません。

 (おわり)

日本最古の現存カフェ「カフェーパウリスタ」に行ってみた

 先日東京に行った際に、「カフェと日本人」で紹介されていた「カフェーパウリスタ」に行ってきました。 

hare-tetsu.hatenablog.com

 

お店は銀座にあり、新橋駅から徒歩で約5分ほどの距離です。以下画像で紹介します。

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お店の外観はこんな感じ。
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こんな掲示も。明治44年創業だそうです。
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お店の内装。レトロです。ちなみに椅子は自由に動かせます。
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「森のコーヒー」。しっかりした味わいでした。
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現在のパウリスタは1970年にできた店舗らしいですが、昔の店舗(銀座6丁目)ができた当時は朝日新聞電通本社などに近かったことから多くの人々が集まる場として栄え、芥川龍之介森鴎外など著名人も足繁く通ったそうです。現在の店舗もジョンレノンとオノヨーコが来日時に通ったことで有名です。

また「銀ブラ」という言葉は「銀座をブラブラする」ことではなく、慶應義塾大学の学生が「銀座のカフェパウリスタまで歩き、ブラジルコーヒーを飲む」という意味で用いたとする説もあるそうです。(若干怪しいですが…)

いずれにせよ、当時の文化の一端に触れたような気分になりました。

(おわり)

カフェーとAKB:「カフェと日本人」

「カフェを考える」シリーズ、まずは日本のカフェの歴史を知ろうとカフェと日本人を手に取りました。この本では日本におけるカフェの歴史や、日本ならではのカフェの特徴などが取り上げられています。コーヒーにまつわる知識なども得られて読み物としても面白いです。取り上げられたカフェに行ってみたくなります。

以下、気になったポイントをピックアップ(羅列)しておきます。

 ・コーヒーの発見と普及には諸説あるが、エチオピアのカルディというヤギ飼いの若者が、ヤギを追ううちに偶然コーヒーの実を見つけて食べた「カルディ伝説」が最も有名だ。時期ははっきりしないが六世紀ごろといわれている。

 ・実在が確認されている日本で最初のカフェは、1888( 明治21) 年、東京・下谷区西黒門町( 現在の台東区上野)に開店した「可否茶館」といわれる( 読み方はかひちゃかん、かうひいちゃかん、など諸説あり)。店内にはトランプやクリケット、ビリヤード、碁や将棋などの娯楽品が置かれ、国内外の新聞や書籍も揃え、化粧室やシャワー室まであったという。店の経営者は鄭永慶という名前で(日本人)イエール大学に留学していたエリート。彼はこの店を「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」と考えた。 当初は学校設立をめざしたものの、 資金不足でカフェになったともいう。(この店は4年で閉店した)
 
 ・現存する日本最古のカフェは1911(明治44)年創業の「カフェー・パウリスタ」。現在は銀座に店舗がある。

www.paulista.co.jp

・現在の日本国内のカフェの店舗数は、70,454店(2012年)。最盛期の154,630店(1981年)の半数以下に落ち込んだが、それでも2014年のコンビニの数(5万超)を上回る。

・元々カフェや喫茶店は「人と人が出会い交流する場」であった。これは男女の出会いにも通じるので、明治・大正時代から若い女性給仕(女給)が接客を行い、それを目当てに男性客が通う店があった。一部の店では女給を赤・紫・青組の3組に分け、ビールの売り上げを競わせたり、ビール一瓶を投票権にして女給の人気投票を実施したりした。これは現在におけるAKB48の商法と変わらない。
 
 ・日本の喫茶店は当時「カフェー」とよばれ、現在の「カフェ」とあまり変わらない意味で使われていたが、大正から昭和初期にかけて上記のような女給のサービスを売りにする店舗とあくまでコーヒーや軽食を主体にする店に分かれていく。前者は変わらず「カフェー」とよばれ、現在のキャバクラのような位置付けとなっていき、後者は「喫茶店」とよばれるようになる。つまりカフェーは、誕生後しばらくは現在のカフェと変わらない意味合いだったが、やがて風俗店の性格を帯び、喫茶店と別れて隆盛を誇った後に徐々に消滅する。
 
・現在「 カフェ」という言葉は、店だけを示すものではなく、交流場所のような意味 でも頻繁に使われる。「 × × カフェ」と呼ぶシンポジウムやトークショーがその一例だ が、今後は、より一層そうした用い方がされるはず。それとともに交流の仕方も多様化するだろう。
 

今度東京に行ったらカフェー・パウリスタに行ってみたいと思いました。 

カフェと日本人 (講談社現代新書)

カフェと日本人 (講談社現代新書)

 

 (おわり)